8.女神の羨望

 陽が落ちて、すっかり冷え切った夜風は、だが肌に心地良かった。
 外の空気を吸い込みながら、ラルフィリエルは王城を振り仰ぐ。
 彼女は“姉”にひとつだけ伝えられなかったことがあった――いや、伝えようがなかったのだが。
 それは、“あのとき”のことだから。

 シレア――その名を、彼女は以前から知っていた。

 ラティンステル大陸で、彼の胸に剣を突き立てた――あのとき。
 崩れ落ちる彼が或る言葉を口にしたのが確かに聞こえた。きっと背を向けられていたエスティにも聞こえてないだろう。倒れるリューンの正面にいて、かつ間近にいた自分だけが、その唇が動いたのが解って辛うじて聞き取れたから。
 その名前のような言葉が実際に名前であったことを知ったのは、リダでエスティがその名を呼んだときだった。彼にそのシレアという人の事を聞いてみても仲間とだけしか教えてくれなかったが、きっと兄にとっては特別な人なのだろうと思った。
 エスティがシレアを仲間だとしか言わなかったのは、実の妹である自分に対しての気を遣っただけだろうから、だから、誰も気付いていないだろう。リューン本人でさえも。
 シレアに向けられる彼の眼差しは、確かに家族愛に近いのだろうが、だけど自分に向けられるそれとはほんの少し――違う。
 記憶を失ってもこれほど鮮烈にその存在が焼きついていた兄は、自分にとって絶対の存在でかけがえない存在だった。だから。
(だから――やっぱりあなたが羨ましい)
 振り返ったままで、複雑な笑みを浮かべる。
 リューンの表情の変化に気付いているのは多分自分だけだろう。それはごく些細なものに過ぎなかったから。それがわかるのは理屈や視覚によるものではない。確かな根拠も確証もないがラルフィリエルには解った。そしてそれに自信もあった。それはやはり自分が、彼の本当の妹だからなのだろうか。だとしたらきっと、喜ぶべきことなのだろう。
 この複雑な気持ちの呼び名は解らない。だけどそれが哀しみでないことだけは確かだ。
(温かいな――この場所は)
 理由はどうあれ、贖いきれぬ罪を犯した血みどろの自分に、誰もが温かい言葉と共に手を差し伸べてくれる。
 兄も、“姉”も。自分が敵国の将軍であったにも関わらず、スティンの王弟もランドエバーの王女もその騎士も――そして。
 ふと前に向き直り、ラルフィリエルは自分の胸に手を当てた。
 自分を消すために選ばれたあの少年は、どう考えても敵にしかならない存在のはずなのに。それなのにどうしてあの少年は自分に手を差し伸べたのだろう。
 尋ねてもエスティは「知るか」と突っぱねるだけなのだが、それでも知りたかった。どうしても知りたかった――そして、自分が何故そう思うのか、この得体の知れない感情の名前も、知りたかった。
 だけど一人では答えの出そうもないその疑問について考えることをやめたとき、はっと別のことを思い出す。
(そういえば、あのスティンの王弟……)
 自分が一緒に行くと言ったとき、彼が出した条件。それをまだ果たしていないことに気付く。

 気配を感じたのはまさにその瞬間だった。

 身を翻したその瞬間に、今まで自分が立っていたまさにその場所を、白刃の閃きが薙ぐ。
「――丁度、約束を果たさねばと考えていたところだった」
 艶やかに微笑うラルフィリエルの手には、既に剣が握られている。屈強の戦士は、それを見て実に愉しそうに笑った。
「悪ぃな、こんな時に。でも、こんな時だからこそ、今しかねぇと思ってさ」
 にかっと笑うルオの瞳からは、だが本気の闘志が感じられて、ラルフィリエルは剣を握り直した。温存してただで済む相手ではない。それに、本気には本気で答えねば、剣士として失礼に当たるというものだ。
 決して戦いは好きではないが、彼が望むならば全力で戦おう。
 ラルフィリエルは笑みを消すと、素晴らしいスピードで地を蹴った。