6.曇りのち雨、そして晴れ

「きゃぁっ」
 突然の衝撃に、シレアは派手にすっ転んだ。
 ミルディンをアルフェスの部屋の前に残し、お邪魔虫は退散〜とばかりに小走りに駆けて来たのだが、曲がり角で思い切り誰かとぶつかってしまったのだ。
「いたた……」
 お尻をさすりながら起き上がろうとすると、目の前に白く美しい手が差し出された。それで初めて、シレアはぶつかった相手を見上げたのだった。
「大丈夫か?」
 びっくりしたような戸惑ったような、どっちつかずの表情は、そういう表情を天才芸術家が彫刻したのかと思えるような完全な美しさ。だけど見慣れたものでもある。
 そんな絶世の美貌をシレアはもう一人知っている。――とても良く、知っている。
「あ、ごめんなさい。ラルフィリ、……えっと、ラルフィリエルさん」
 おずおずとその手を掴んで立ち上がり、謝る。だが名前をかんでしまってシレアは赤面し、ラルフィリエルは苦笑した。
「呼びにくければラルフィでも構わない」
「あ、うん。ありがと……ございます」
 何故か身構えてしまうのは、彼女がカオスロードだから、あまりに美しすぎるから、それもあるのだろうが直接の理由はきっとそうじゃない。
(この人が……お兄ちゃんの本当の妹)
 成る程そう言われてみれば至極合点がいく話だ。瞳の色も髪の色もまるで違うからすぐにピンとはこないが、ラルフィリエルとリューンは良く似ている。姿かたちをとってみても、雰囲気にしても、リューンのラルフィリエルを見るその視線ひとつとってみても、その全てが自分は“偽者の妹”にすぎない事実を突きつけられているようで、彼女に気後れしているのはきっとその為だ。
 それでもリューンの自分に対する仕草も感情も、全ては“妹”へのそれで。
 だから特別な人にもなれない。
 なのに、妹としての絆を示す、確かな血の証もない。結局、自分はリューンにとっての何でもない。
(馬鹿。妹であることを否定したのは自分なのに。こんなこと……考えたって仕方ないのに)
 どうしても後ろ向きになる自分を叱咤する。こんなのは、自分らしくない。
「……シレア」
 ためらいがちに呼ばれた自分の名に、慌ててシレアは笑顔を浮かべた。「な、なーに?」、取り繕った表情だとは、きっとわかってしまっただろう。だがその理由はきっと彼女にはわかっていない。はじめから、皆からどこか一歩引いている場所にいる彼女のことだ。気にはしていないのだろう。
 それでも複雑な表情で、彼女は語りかけてくる。
「その、不躾で済まない。あなたと、一度ゆっくり話してみたかった」
「あたしと……?」
 少し驚いてシレアが目をパチパチさせる。だがすぐに彼女は笑顔を戻した。多分、さっきよりは自然に笑えたのではないかと思う。
「……うん。えっと、じゃああそこ座って話そ?」
 回廊の途中にあるロビーを指しながら、シレアは既に歩き始めていた。だが、やはり何故か少し緊張してしまって小走りになる。座り心地のいいふかふかしたソファーにちょこんと腰を降ろすと、ラルフィリエルはその向かいに腰を降ろした。
(う……なんかやっぱ気まずいかも)
 シレアにしても、ラルフィリエルと話したいことはあった。そもそも彼女は自分をどう捉えているのだろう?
 エスティ達がスティンに戻ってきたとき、リューンはラルフィリエルに自分を“妹”だと紹介していた。不審に思っただろうに、ラルフィリエルは僅かにアメジストの瞳に感情を揺らしただけで――それからは何を話すでもなく、ミルディン達と合流して今に至っている。
「……あなたは、あの人の……」
 唐突に、ラルフィリエルがそんな言葉を発する。
 だが彼女にしても何と言えばいいかわからず言葉半ばなままで、それでも言いたいことはわかって、慌ててシレアは両手を振った。
「えっと、あの人って、リューンお兄ちゃんのことだよね? えっと、違うの。あたしはお兄ちゃんに助けてもらっただけで……ホントの妹じゃないから」
 ホントの妹じゃない。
 そう言葉にした瞬間、涙が零れていた。
「……えっ?」
 パタ、と涙が膝におちて、驚いたのはシレア自身だった。
「やだ、なんで……?」
 涙でぼやけて、ラルフィリエルがどんな顔をしているのかは見えない。でもきっと怪訝に思ったことだろう。慌てて涙を拭うが、次から次へとそれは落ちていく――
 なんで、と誰にでもなく問いながら、その理由など自分で解っていた。
「シレ……」
「あたしっ」
 呼びかけようとするラルフィリエルの声は怪訝というより心配の色を含んでいたが、シレアはそれを遮るように叫んだ。
「ごめんっ、あたし……っ、あなたが羨ましい……! あたしはお兄ちゃんのなんでもない。あたしとお兄ちゃんを繋ぐものなんて何もない……!!」
 ラルフィリエルが立ち上がったのが気配でわかり、シレアもまた立ち上がると彼女に体当たりする様にその体を打ちつけた。
「なんにもないんだよ……っ!!」
 ぼろぼろと涙を流すシレアを、ラルフィリエルは哀しげな瞳で黙って見ていた。ただ黙って彼女を受け止め、やがて彼女の嗚咽がおさまると、ぽつりと呟いた。
「…………だけど、私はあなたが羨ましい。シレア」
 泣きはらした朱の差す月明かりの瞳を見開き、ぽかんとシレアは彼女を見上げる。
「血など繋がらなくても、あなたたちの方がよほど兄妹らしい。血縁なんかよりも、よほど強い絆で繋がっていると思う。少なくとも私にはそう見える……だから羨ましい。あの人の隣にいるあなたは、私なんかよりもとても自然だ」
 見上げた彼女の表情は心底羨望に満ちていて、シレアはただ単純に驚いていた。
 シレアにしてみれば、彼女がリューンと一緒にいることこそ自然で、同じ空気の中にいて、リューンはとても彼女を大事にしているのがわかるから、だから――でも。
(同じだったんだ)
 彼女も同じ思いで自分達を見ていたというのだ。
 知らずシレアは肩を震わせた。また泣いているのかと思い、その顔を覗き込んだラルフィリエルは、だが今度こそ怪訝な顔をする。シレアは、笑っていた。
「……なーんだ。ラルフィさんも、同じだったんだ」
 泣きはらした目のまま、シレアはクスクスと笑った。そして再びソファにぼすっと体を預ける。
「なんか、やなとこ見せちゃった。ごめんねっ。……どっちが妹らしいかなんて妹大会やってるわけじゃないんだから関係ないよ。そうだよね? あたしもあなたも、リューンお兄ちゃんの妹だよ」
 晴れやかに笑うシレアを、ラルフィリエルはしばし呆気にとられて見ていたが――暫くすると、彼女の顔にも笑みが差した。
(あ、笑った)
 初めて彼女の笑みを見て、だが笑うと一層リューンにそっくりで。やっぱりちょっとだけ羨ましいや、二人とも綺麗なんだもんと、そんなことを考えられるくらいには心のもやもやは消えていた。
「ってことは、あたしたちは姉妹だよね。よろしくね、お姉ちゃん!」
 差し出された手をラルフィリエルが微笑みながら握ると、またも急にシレアはすっくと立ち上がった。
「そうだ、さっそくこのことをお兄ちゃんに報告しなきゃ! いこ、お姉ちゃん!!」
 立ったり座ったり、泣いたり笑ったり。
 そんなシレアに振り回されながらも自然に笑えるようになったラルフィリエルの手を引きながら、シレアは最愛の“兄”の元へと駆けて行く。
 そう、時には後ろ向きになるけど、いつもは前向きに。
 泣いたり怒ったり、だけどその分とびっきりの笑顔を今もその顔に浮かべながら。

 そうしてシレアは走っていく。見えない明日も、明後日も、きっと、ずっと。