4.azure mind

 ――明日、か。
 一刻を争うこの状況では、それすら悠長なことだ、とは思う。それでも“明日”という単語を突きつけられてしまうと、急なことだと言わざるを得ないだろう。少なくとも自分にとっては。
 息付く間もなく、物凄い早さで周りのモノが流れて行く。
 城での最後の攻防戦で、エスティ達が現れたあの時から――いや、そもそもこの戦が始まったときからだろうか。
 とりとめもなくそんなことを考えながら、ミルディンはただぼんやりと王城の回廊を歩いていたのだが。
「ミラ!! 待って!」
 急に呼ばれてミルディンはびくりと体を震わせた。その声はよく知ったものであるから、単純に急に声がかかったことにびっくりしただけなのだが、振り向くと声の主は少しすまなそうな顔をしていた。
「あ、ごめん。びっくりした?」
 長いピンクベージュの髪をした少女が、両手を口元に当てておずおずと歩み寄ってくる。それを見て、ミルディンは微笑みを見せた。
「ううん。ごめんなさい、シレア。ちょっとぼんやりしてたから……」
 すると彼女――シレアも微笑みを返す。ぱぁっと笑うシレアの顔は、見ているだけで元気を貰える。だからミルディンは彼女の笑顔が大好きだ。
 久々に会った彼女が変わらずにいてくれて、ミルディンは心からほっとしていた。
 そして、彼女にリューンの死を告げずに済んだ事には本当に良かったと思った。
 あのとき、人差し指を口にあてたリューンが、シレアにあの事を言わないで欲しいと暗に告げていたことはすぐに解った。何事もなかった今となっては、ああしてリューンが元気にしていてくれれば全てはそれでいいと思う。何もあのように辛いことを、シレアが知る必要などない。
 そんなミルディンの胸中など知らず、いつものようにシレアは明るく話しかけてきた。
「いよいよ明日だねっ。いつかこんな日が……セルティと戦う日が来るのかなって。お兄ちゃん達と旅をしてたときから思ってたけれど」
 “明日”、胸が重くなる筈のその言葉ですら、彼女が言うだけですんなり受け止められる。
「怖い?」
 そんな彼女にミルディンは問うてみた。だがシレアは首を横に振る。
「怖いとしたら、それは留守番だって言われることだよ。それか、ついていって足手まといになっちゃうこと。どっちも怖い――あたしに今ある迷いはそれかな」
 行きたいのに行くこともためらわれる。それは自分自身の持つ迷いと全く同じで、ミルディンは深く頷いた。
「……わかるわ。それはわたしも同じよ」
「んーん」
 しかし今度もシレアは首を横に振った。
「イリュアさん言ってたよ。ミラの召喚の能力は必要だって。ガルヴァリエルを倒すのにはケパちゃんの力は不可欠だからって。ミラが来てくれるかどうかを気にしてた」
「……わたしの」
 驚いて、自らの胸に手をあてる。そこから沸き立つような気持ちを、ミルディンはその瞬間感じていた。その興奮は喜びですらあることにもすぐに気がつく。
 ただ守られていただけの自分の力が、生まれて初めて必要とされた。
 ふと顔をあげると、複雑そうな表情をしたシレアに気付き、だが彼女は罰の悪そうな顔をするとまたいつもの笑顔に戻って話を変えてきた。
「ねえねえ、明日ってことは今って決戦前夜ってやつだよね。ミラはアルフェスさんに告白とかしないの??」
「こッ……!!?」
 いつかのようにまたもニワトリのような声を出したミルディンを見、シレアが可笑しそうに笑う。からかわれたのだと気付いて、ミルディンは憮然として言葉を返した。
「シレアこそ。リューンに何も言わないの?」
「言おうかな」
「え……ええっ!?」
 ここぞとばかりに言い返したのだがあっさりとシレアは即答し、またもミルディンが仰天する。再びシレアが吹き出して、今度こそミルディンは本当にしかめ面になった。
「意地悪。わたしのことからかってるんでしょ?」
「ごめん〜、怒らないで、ミラ」
 腰の低いその言葉とは裏腹に、可笑しくて仕方ないという風に笑い続けるシレアに溜め息をつく。
「じゃあ何も言わないの?」
 尋ねるとシレアは真意のよくわからない表情でこちらを見返してきた。
 笑ってはいるが、その笑みは少し哀しそうで、でもどこか吹っ切ったような、そしてどこか大人びたもの。
 そんな彼女が何を思うのかわからなくて、どう声をかけていいのかわからなくなっているミルディンに、シレアの笑みには悪戯っぽいものが混じった。思わず身構えたミルディンに、シレアが告げたのは意外な言葉だった。
「あたし、アルフェスさんのこと好きだったんだよ」
 予想もしなかったそんな言葉に、またからかわれているのかとも思ったが、呆ける自分を見てもシレアは今度は吹き出したりしなかった。
「……え?」
「ふふ、誰もが憧れた英雄だよ? そんな特別なことじゃないよ」
 ムーンライトブルーの瞳に覗き込まれて、ああ、そういう“好き”だったのかと何故かちょっとほっとする。彼が英雄であること、大陸を越えて有名だと言うことはもちろん知っているが、それを客観的に把握するにはあまりに身近な存在すぎて実感がない。だから、シレアの言葉は唐突すぎて、どぎまぎしていたのだ。
 ミルディンが勘違いに気付いたのであろうことを察して、シレアは視線を外すと彼女に背を向けた。
「……だからね。きっと、あたしお兄ちゃんへの気持ちも、“憧れ”だったんだよ。あたしにとっては、あたしを助けてくれた英雄だったから」
「シレア……」
 背を向けた彼女の顔が見えない。今どんな表情でそう言っているのかわからなくて、ミルディンは彼女の服の裾を引いた。だが振り向いた彼女はやっぱり笑顔で、そこにはもう哀しみや諦めなど微塵もない。
「無理してるんじゃないよ。それでいいの。……でもミラはそうじゃないでしょ?」
 ぐるり、と身体ごと振り返ると、シレアはすかさずミルディンの後に回り込んだ。あたふたするミルディンの背中をぐいぐい押して、アルフェスの静養する部屋の前まで連れて行く。
「えっと、シレア?」
「後悔は、残しちゃだめだよ? ミラ」
 ウィンクするシレアに、ミルディンは再び溜め息を付きながら微笑した。
 いつも明るくて、素直で、前向きな彼女が心から羨ましく、そして彼女が友達でよかったと――手を振って走り去っていく彼女を目に焼き付ける。
 だが彼女に背を押されて、ノックしようと扉に向き合ってみたものの、やっぱり気持ちを伝えることなど無理だとミルディンは嘆息した。
 だけど、後悔は残らないと思った。
 彼が居てくれればそれだけで、幸せだと――そう思えるから。

 穏やかに微笑みながら、ミルディンは扉をノックした。