1.世界と少年

 突如訪れた夕立に、人々は慌てて家へと駆けた。
 広場ではしゃいでいた子供たちも、日曜大工の父親も、井戸端会議の御婦人も、今日はもうお開きである。
 蜘蛛の子を散らす様に走って行く人々を見るともなしに見つめながら、彼もまた突然の雨に閉口していた。土地勘のない旅先の街で、宿までの道が定かでない。
 適当に誰かに聞こうと踏んでいたのだが、あっという間に通りから人の姿は消えていた。その間にも雨は、彼の服を、長い髪を、両手一杯の荷物をぬらして行く。
 彼は買出しの帰りだった。
 嘆息しながら、とりあえず雨を避けるために軒下へ避難し荷物を降ろすと、ふとその中に無造作に突っ込まれていた紙切れに目が留まる。先刻、ばらまかれていた号外だ。浮かない顔でそれを取り上げると、彼はさっきも読んだその記事に再び目を通しはじめた。

 ――人の歴史が始まって、3022年。
 もっとも、人が荒地に文明を築き、暦という概念を創り出してから、ではあるが。
 その歴史の中で人は、争いの時代と平和の時代を繰り返し、そして今また、再び戦乱の時代が幕を開けた。
 大陸歴3009年、ラティンステル大陸でその火蓋が切って落とされてから13年、戦火は大陸内だけに止まらず、隣のリルステル大陸にまで及び、激化の一途を辿っている。
 その中で圧倒的な力を誇っているのが、ラティンステル大陸のセルティ帝国であり、セルティが戦乱へと参入したその時から僅か3年足らずで皇帝は大陸全土を掌握した。
 その恐怖の軍隊を統べるのは、“混沌を統べる者(カオスロード)”の異名を取る皇帝直属の将軍――


「エス、遅いね、リューンお兄ちゃん」
 退屈を噛み締めた声に、リューンと呼ばれた少年はこの戦乱についての回想を止めた。
 顔を上げると、絹糸のように滑らかなフラックスの髪が肩をすべる。
「そうだね……退屈かい、シレア?」
 瞳を細めて微笑うその顔は、少年というよりも少女のそれ。女性であれば絶世の美女と言ってもいいだろう、その笑顔に、シレアと呼ばれた少女はそれが見慣れたものであるにも関わらず、思わず目を見張ってしまう。
 彼は男性ながら、それほどの美貌の持ち主であった。
 しかし、惜しむらくは――その深く美しい碧色の瞳が覗えるのは左の片目だけで、右目は長い前髪が覆っている。彼は隻眼であった。
「……退屈。おなかすいたし」
 シレアが自分のピンクがかった薄茶の髪をいじりながら、不服そうに答える。
 ――本当に不服なのは、自分はその少年の妹であるのに、少しも似ていない、ということだったが。
(お兄ちゃんは男なのに、あんなに綺麗なのに……不公平だわっ)
 そんな彼女の憤りを知る筈もなく、美貌の少年、リューンは宥めるように彼女の長い髪を撫でた。
「多分退屈なのは今のうちだけだよ。……きっともうすぐ忙しくなる」
「……本当は暇なほうがいいんだろうけど、ね」
 リューンがテーブルの上においてある号外の方を見ながらそう言ったのに気づき、 シレアが複雑そうな声をあげる。肯定するように苦笑すると、リューンは窓を見やりながら話題を変えた。
「それにしても、本当に遅いね、エスティ。いくら雨に遭ったっていっても、とっくに戻っていい頃だよ。……何かあったのかな」
 その表情に少し心配の色が宿るが、道にでも迷ったんじゃない、とシレアは気楽な声をあげるのみである。そんな彼女に再び苦笑しつつ、リューンは肩をすくめた。
「まさか! いくらエスでも、こんな小さい街で迷うわけ……」
 勢いよく扉が開いたのは、丁度そのときだった。
「悪かったな。そのまさかだよ」
 全身ずぶ濡れの少年――彼らがエスと呼ぶ人物に相違なかった――が、憮然と吐き捨てながら姿を現す。
「ええっ!? 迷ったのぉ!?」
 素っ頓狂な声を上げて、リューンが立ち上がる。彼、エスティは無造作に上着を脱ぎ捨てると、後ろで束ねている長い黒髪をほどいた。その長さといったら、腿にかかるほどである。
「本当に迷うなんて、バカねぇ」
 悪態をつきながらも、シレアが清潔なタオルを差し出す。それをひったくりながら、エスティも負けじと怒鳴り返した。
「なんだとぉ?! だいたい何で俺が、お前らの分まで買出ししなきゃならねーんだよ!」
「八つ当たりはやめてよねー。大体、ジャンケンで決めようって言い出したのは、エスなんだからね。今更恩に着せようなんて男が小さいったらないわ!」
 べーっと舌を出したシレアに、エスティは尚も何か言い返そうと身を乗り出しかけてやめる。
 どうせ口では勝てないのだ。仏頂面で頭からタオルを被ると、さっさと話題を変えた。
「それよりも、リューン。号外読んだか?」
 声をかけられ、それまで黙って2人のやりとりを見て笑っていたリューンが真顔に戻る。
「ああ、……セルティが、こんなに早く動くとはね」
 その言葉に、シレアまでもが神妙な面持ちになった。
「まさか、あの精鋭の騎士団で知られるランドエバーが首都を落とされるとはな……」
 セルティ帝国が、ラティンステル全土を制圧し、リルステル大陸に侵攻を始めたとき、その無敗の戦歴に初の黒星をつけたのが軍事大国ランドエバーであった。
 この報せは、兵を率いたランドエバーの騎士隊長の名と共に、瞬く間に大陸中に伝わり、彼が国内に留まらず多くの人々に英雄“ランドエバーの守護神(キングダムズ・ガーディアン)”と称され、讃えられたのは、ほんの数年前のことだ。
 しかし今度は逆に、ランドエバーが無敗神話を崩される形となった。
 エスティや、リューンが言う号外は、その報せを伝えるものだったのである。
 セルティに国を掌握され、迫害されている者たちにとっては、正に悪夢と絶望の号外となっただろう。
 最早列強の国々は、帝国の名を聞いただけで白旗を揚げている。そんな中、果敢にも帝国に立ち向かい、勝利を収めたランドエバーは、帝国の圧政に苦しめられている人々にとって、最後の希望でもあったのだ。
 浮かない顔で、リューンが言葉を続ける。
「……長の戦で、臥せっていた国王も亡くなられたらしい。これでランドエバー王家も残すところ年端も行かない姫君が1人だそうだよ」
「ランドエバーが倒れれば、セルティの一人舞台というわけか……くそっ」
 畏怖の念が入り混じった声で、エスティが吐き捨てる。リューンも浮かない顔をしていたが、やがていつもの穏やかな表情に戻り、
「……これで何か作ってもらってこようか。これから忙しくなるんでしょ?」
 エスティが買ってきた食糧の袋を覗きこんで言った。
「そうだな。セルティが一度退きながら、これだけ早くランドエバーに仕掛けてきたのは雪辱を晴らすためだけじゃなさそうだ」
 真紅の目を危険に細め、エスティが嘯く。
「飯、食ったらすぐに出立するぞ」
 シレアの頭をポンと叩き、立ち上がる。
「お前は留守番だ」
「えーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 容赦ないエスティの言葉に、シレアは思い切り不満の声をあげた。
「えー、じゃないっ!時間がないんだ、俺たちは戦場つっきってランドエバー城まで行く。
あ・し・で・ま・と・い・だ」
 ぐりぐりと手で頭を押さえつけながら、エスティ。しかし、シレアも諦めない。
「イ・ヤ・よ!! エスよりかは、役に立つわ!」
 シレアがパッと横に逃れたので、エスティはバランスを崩して転びそうになる。 その間に彼女はリューンの後ろに回りこむと、彼を盾にする様にして、エスティと対峙した。
「絶対、ぜったいついていくもんね! おいていったって、無駄なんだからっ! 前みたいにおっかけてやるもんっ!」
 駄々をこねる妹をリューンが困ったように見下ろすと、彼女と視線がぶつかった。
 月明かりの夜のような蒼い瞳に、懇願の色があることを見て取ると、リューンは彼女にわからない様小さく息を吐いた。そして、エスティの方へ、苦笑しながら首を横に振る。
 それを見、エスティも苦笑して小さく肩をすくめる。
「……ちゃんと準備しとけよ」
 パァッと、満面の笑みが広がったシレアの頭を、エスティはくしゃりと撫でた。