ヘイルを家に送り届けた頃には空はもう白み始めていたが、家のドアを開けるとヘイルの母が仁王立ちで待ちかまえていた。華奢で物静かな印象の女性だったのに、別人かと思うほどの形相でこちらを睨みつけてくる彼女は、リゼルやティラの母と同質のオーラを背後に立ち昇らせていて、二人も思わず直立不動で立ちすくんだ。
「今、何時だと思っているの?」
静かにそんな風に切り出した彼女に、ヘイルが生唾を飲んだのが隣にいるリゼルらにも聞こえる。黙って成り行きを見守るしかないリゼル達の目の前で、間もなくその静寂はヘイルが尻を叩かれる音へと変わった。
「あなたって子は心配ばかりかけて!」
「ご、ごめんなさいいい痛い!」
それは、ごく普通の家族のやり取りに見えた。温かくもあり、微笑ましくもある一方で。
「……俺もあれくらい怒られるのかな」
「あれくらいで済めばいいわね」
他人事ではない兄妹としては、それ以上に恐ろしい。
「あなたたちも。いくら二人で旅してるからって、まだ子どもなんだから。魔物が異常発生してるなんて話もあるんだし、こんな時間に出歩いては駄目よ?」
『ごめんなさい!』
その瞬間に狙いすましたかのように切り込んでくるヘイルの母に、反射的に二人は声をハモらせると頭を下げた。その後で、おずおずとリゼルが頭を上げる。
「あの、俺達もう行きます」
だがそう言うと、途端ヘイルの母は表情を和らげ、いつもの温和な顔に戻る。
「……誤解しないでね。心配しただけで、怒っているのではないのよ。あなたたちにはとても感謝してるの」
「解っています。母に会いたくなりましたから」
苦笑というより、どこか自嘲の混じる笑みを浮かべて、だがリゼルは前言を翻しはしなかった。そして少しの逡巡の後笑顔を消すと、彼は手にしていたものを彼女の目の前へと差し出した。
「夜明けにも、大陸連盟がここに来ると思います。そうしたらこの本を渡して下さい。……俺はあまり連盟と顔を合わせたくないんで、彼らが来る前にここを発ちます」
「え、ええ……分かったけれど」
突然大人びた表情をしたリゼルに気圧されて、ヘイルの母が本を受け取る。汚れひとつない、真っ白な本の表紙を手の平で撫でながら、少し怪訝な顔で彼女はリゼルとティラを改めて見た。
「貴方達は、何者なの?」
「正義の味方です」
大人びた表情は既になく、あどけなさが残る笑顔でリゼルがにっこりと即答する。ヘイルもヘイルの母も唖然としたが、兄妹が踵を返すのを見てヘイルははっと我に返るとリゼルの腕を掴んで止めた。
「ま、待ってにーちゃん。オレも、オレも正義の味方になりたい!」
突然にそんなことを言われ、リゼルは立ち去りかけた足を止めるとヘイルの必死の表情を見下ろした。
「……正義の味方なんて、いないんじゃなかったの?」
悪戯っぽい声を上げながらも、見下ろしてくるリゼルの笑みは優しい。それにどこかほっとしながら、ヘイルは懸命に言葉を繋いだ。
「ううん、にーちゃん達は正義の味方だったよ。母さんを治してくれたし、働いてお金を稼ぐ方法も教えてくれたし、オレを守ってくれた。それににーちゃんは強い。オレも強くなりたい、にーちゃんみたいな正義の味方になりたい!」
最初に会ったときのようなどこか捻くれた目も言葉もなく、真っ直ぐ熱い瞳でそう訴える少年の目線までリゼルは腰を落とすと、口元に手をかざして内緒話をするように声を潜めた。
「よし。じゃあ教えてあげるよ。正義の味方になる方法」
途端にヘイルがぱっと顔を輝かせる。
「ホント!? そんなのあんの!? それやったら、強くなれるの!?」
「別に強くなくたって、正義の味方にはなれるよ」
だが勢い込んで尋ねてくるヘイルに、リゼルはそっと首を横に振った。そして右手を持ち上げると軽く拳を握り、それをヘイルの胸に押し当てる。
「ここにある思いに、嘘つかずに真っ直ぐに向き合うんだよ。少なくとも俺はそうしてる」
「……? 正しいことをするのが正義の味方だろ?」
「いつも正しいものなんて、ないんだ」
意味がわからないというように問いかけてくるヘイルに、リゼルは笑顔のままで答える。
「いつも正しくて優しいものなんてないんだ。勿論、俺だって、俺の言葉だって。それを正しいかそうでないか、判断するのはヘイル自身で、決めたらそれに従ってまっすぐに信念を貫くんだ。自分の心を誤らないように」
「……、よくわからない」
「大丈夫、ヘイルはそのままでいれば、俺より強い正義の味方になれるよ」
ヘイルの胸から手を離し、拳を開くと、リゼルはヘイルの頭をくしゃくしゃと撫でながら立ち上がった。
「それじゃ、元気で」
そしてそれだけ言って手を振る。今度こそ踵を返した彼の後を、ティラがぺこりと頭を下げて小走りに追いかけて行く。
「……変わった兄妹ね」
じっとその後ろ姿を見守る息子の、ほんの少しだけ大人びた眼差しに微笑みながら、母はそっと息子の頭を撫でた。
親子の見つめる先で、今まさに夜が明け、朝日が顔を覗かせていた。