7.



 病室まで戻ってはきたものの、扉を開けづらい。部屋の前に立ち止まったままで、だが中に人の気配がないことに気が付いて、セラは咄嗟に扉を開けていた。
「ティル!?」
 空っぽの病室で動いているのは、開け放たれた窓の傍のカーテンだけだ。元々ティルは私物をあまり持っていないが、上着も刀も見当たらずセラは激しく動揺した。
 ――前も、そうして彼は勝手にいなくなった。さよならと告げられた声が頭に蘇り、視界が霞む。
「ティ――」
「セラちゃん? 忘れ物でもした?」
 思わず叫びかけたときに不意に後ろから声が掛かり、止まる。振り向くと、気まずそうな顔をしたティルと目が合った。
「ちょっ……ちょっと、セラちゃん――」
「急にいなくなるな! 焦っただろ!!」
 突然飛びつかれて、ティルが狼狽した声を上げる。抱きしめそうになってしまって慌てて手を止め、その手を宙に彷徨わせたままでセラを見下ろす。
「なんで――」
「また、黙って出て行ったのかと思った……」
「…………」
 俯いたまま呟くセラの表情は見えない。だが彼女の手が涙を拭うのが見えて、ティルはなけなしの理性をかき集めると彼女の肩を掴んで体を離した。
「ちょっと頭冷やしてただけだ」
 そう言う彼の、息が少し切れていることに気が付く。多分刀を振っていたのだろうとなんとなくピンときた。セラも、悩んだ時や落ち込んだ時にはよくそうする。だが、静養中の彼が息切れするほど刀を振っていいとは思えない。それを注意しようとして、そうさせたのは自分の所為だと思い直す。
「……さっきは済まない」
 謝罪の言葉を口にすると、彼は驚いたように碧眼を見開いた。
「どうしてセラちゃんが謝るの。さっきは……俺が悪かったでしょ、どう考えても」
「違うよ。私はずっとティルに甘えてた。何も言わないで傍にいてくれるから……二年前、あんなに後悔したのに」
「二年前って……」
 クラストの一件があったとき。厳密には、セラへの想いを告げて、彼女の元を去ろうとしたときだろう。察してティルは目を背けた。
「……俺が忘れてって言ったんだよ」
 結局自分のその弱さを突かれてクラストに利用され、セラに迷惑を掛けた。だからもうセラを苦しめるようなことはしたくないと思った。今更のように思い出して唇を噛む。それなのにセラを泣かせてばかりいる。
 しかし、セラはかぶりを振った。束ねた金の尻尾が揺れる。
「クラストに随分責められた。私がティルを傷つけて追い詰めたって。なのに今も変わってない」
「は、はぁ? あいつにんなこと言われる筋合いないよ。大体、傷つけてるのは、俺――」
 トン、と胸に軽い衝撃を感じて、ティルは言葉を止めた。そこにセラの頭があるのを、ひどく客観的に感じる。
「……好きにしていい」
「……は……?」
 本気で何を言われているのかわからず、ティルは戸惑いの声を上げた。
「何言ってるのか、わかってんの?」
「わかってる。そんなに子供じゃない。昨日みたいにからかうなよ」
 震えているくせに、おどけた声を上げる。そんな姿を見せられるなど堪ったものではなかった。声を聞くだけでも、近づくだけでも、どれほど想いを殺すのに苦労したかなど彼女は何もわかっていないのだろう。
「わかってない……からかってるわけじゃない。でもふざけてでもなければ、もう……」
 自分が彼女に相応しくないことなどとうに知っている。誰を見ていてもいいから、その傍にいたいと、その為に強くなろうとしてきた。けど結局は無駄な努力なのだと痛感する。抱きしめてしまえばもう止まれないと、わかっていて抱きしめてしまう。だがその体をベッドに押し付けても抵抗しないのを見ていると、欲望より苛立ちの方が増してくる。
「なんで抵抗しないんだよ……全治一ヶ月の怪我人だよ。簡単だろ……」
 すぐ目の前にある碧眼を見て、セラは眉を顰めた。その瞳はあまりにも哀しくて痛い。とても望んでこうしているように思えない。
 いつも彼はそうだった。想いを告げられたあのときも、泣き出しそうな顔をしていた。告白はまるで悲鳴だった。
「初めて会ったときを、思い出す」
 初めて会った日――リルドシアの姫を護衛する任務だったのに、その姫に口説かれ押し倒された。あのときと同じ距離に、今彼はいる。
「哀しそうに笑うひとだと思った。あのときから、ティルのこと守りたいと思ってる。でも……」
 どこからどう見ても儚い姫でしかなかったティルも、今はもっと背が伸びたし、美しさは変わらないが女性らしさは少しずつ抜け始めている。だけど寂しさを湛えた碧眼だけはずっと変わらない。
「今のティルは、初めて会ったときよりも辛そうな顔してる」
 セラは手を伸ばすと、ティルの頬に触れた。ティルがびくりと震える。あと少しで唇が触れそうなほど近くにいるのに、決して触れることはない。
「……今更躊躇するのか? どうせ一回目もお前なんだぞ」
「……。ごめん……」
 ようやく彼が口にしたのは謝罪の言葉だった。こんなに近くにいても、顔が熱くなることも、鼓動が早まることもない。セラは溜息をつくと、ベッドを降りた。
「……やめよう。傷に障る」
 ティルは止めなかったし、再び触れてくることもなかった。しばらく静寂が部屋を包んだが、ふと思い出してセラはポケットを探った。
「そうだ。指輪、返しとく。これ、母上の形見なんだろ?」
 振り向くと、ティルは少し驚いたような顔をした。それから苦笑する。
 セラのことだから刻印には気が付かないと思っていた。それに気が付くとすれば――
「……ボーヤに相談したでしょ」
「なっ、なんで……」
 わかりやすくセラが目を逸らす。だがそれを見ても、自分でも驚く程に闘争心も嫉妬心も起こらなかった。勝ちたいという気持ちはいつしか勝てないに変わり、さらには勝つべきでないとすら思い始めている。
「もう俺のことはボーヤに言うなよ。俺もセラちゃんとボーヤが何かあっても知りたくないし」
「私が言ったわけじゃない! ティルだってそうだろ……お前らが勝手に気付いて勝手に話を進めて……!」
「言ってなくても顔に書いてあるんだもんなぁ……」
 背中で溜息が聞こえて、セラは釈然とせず押し黙った。自分で顔に出しているつもりはないのだ。
「……努力する。でも、多分ラスとはきっと何もないよ……」
「なんでだよ」
「離れたくないのと同じくらい、今以上の関係も別に望んでない。ラスも多分同じだから」
「じゃ、俺はどうすればいいんだよ……」
「逆に問うが、ティルは私にどうして欲しいんだ。ラスに会わなければ満足するのか?」
「……そんなことは言ってない」
 それに、意味もない。
 セラがライゼスに何も望まないのは、その必要がないからだ。言葉で、体で繋がらなくても、心が繋がっているから、それ以上の必要がない。
(きっと、俺は、それが欲しいんだ……)
 絶対に届かない、絶対に踏み込めない領域だとわかっている。わかっているから近くにいても遠くに感じてしまう。
「ティル――」
「その指輪、セラちゃんが持ってて。そうすれば黙って行けなくなる。返してもらわなきゃならないから」
「…………」
 遠回しな「さよなら」を宣告されて、セラは口を噤んだ。結局、どれほど話してもその距離は埋まらない。
「それまではいつも通り傍にいる。だから、……今日のことも、二年前に言ったことも忘れて……」
 セラは「わかった」と答えた。恐らく忘れることはできないとわかっていたが、それでもそう答えた。悲しみも涙も隠してみせた。
 それは、初めて彼女がついた嘘だった。