6.



 胸が苦しくて、目の奥が熱い。頭の中では思考の渦がグルグルと蜷局を巻くのに、何一つとして考えがまとまらない。結局なにも考えられない。体の重さに反して足は動き、気が付けばレゼクトラ邸の前に来ていた。だけどその扉を開けられない。
 どうしてここに来てしまったのかわからない。一番来てはいけない所のような気がするのに、来てしまえばもう足が動かなかった。
 この得体の知れない感情は、だけど覚えのないものではない。初めてそれを覚えたのは――二年前。
 そのとき、セラはエズワースという貴族の館で用心棒をしていた。そしてクラストという青年が現れた。彼に精神魔法をかけられたあのとき。
 思い当たって、セラは頭を振った。厳密には違う。頭がおかしくなりそうなのは、魔法をかけられたせいではない。さよならを告げられた、あの瞬間からだ。
 扉に掛けていた手を下ろして、重い足を引きずって、その場を後にしようとしたときだった。不意に、扉が開いた。
「セラ……」
 紫色の瞳がこちらを捉えた瞬間、堪えていたものが溢れ出して、支えていたものが全部崩れてしまう。
「…………ラス」
 掠れた声でその名を呼ぶと、胸のつかえが軽くなる。動かない足が軽やかにその傍へと体を運んでしまう。頭の中で、クラストの嘲笑が聞こえた気がした。それは幻聴だろうが、彼がここにいたならきっとそうした。それに抗うだけの強さも今はない。
 縋りつくように倒れこむセラの肩を支えて、ライゼスは小さく息をつくと、レミィを振り返った。
「すみません、レミィ。今日は……」
「はい。今日はこれでお暇します」
 こちらの我儘を、レミィは温かい笑顔で受け入れてくれる。嫌な顔も困った素振りもまるで見せずに、微笑んで頭を下げる。
「失礼します。姫様、ライゼス様」
 答えなければ失礼なことくらいわかっているのに、セラは顔をあげることもできなかった。だが心はだいぶ落ち着いていた。遠のいていく少女の気配を感じながら、後で謝ろうとぼんやり考え始めた頃、ライゼスの声が降ってくる。
「……大丈夫ですか、セラ」
「……あ……」
 その声に、ようやく顔を上げることができる。縋りついていた手を離して、セラはライゼスを見上げた。いつの間にか見上げるくらい大きくなっていた幼馴染は、だけどそれを除けば何一つとして変わらない。
「……なんでもない。済まない、来客中だったのに」
「構いませんよ」
「彼女にも詫びなければ。エルベール家の者だったな」
「ええ。普段はレアノルトにいるんです。僕が講義などで向こうへ行くときに、助手のようなことをしてくれています」
「……そうだったのか。知らなった」
「ちゃんと紹介できずにすみません」
「いや。だがまた改めて紹介してくれ。ラスが世話になっているんだろう? ちゃんと挨拶しておかなければ」
 彼女が去った方に目を向けて言うセラに、ライゼスはフッと笑った。
「まるで僕の保護者のような口ぶりですね」
「そういうつもりじゃないが、家族みたいなものだろ。当然じゃないか」
「……そうですね」
 婚約者だと述べなかったことに、何故か安堵を感じてしまってライゼスは再び笑った。セラに対する自分の感情がなんであれ、少なくとも今は――彼女にとって家族でありたいと思う。その気持ちだけは間違いのないものだった。だが、だからこそ笑みを消す。
「なら、何があったか話して下さい。家族だったら隠し事はなしでしょう」
 実際ライゼスは父にも母にも悩みなど話したことはないのだが。もしかしたら自分もセラに自分が得られなかったものを求めているのかもしれないなどと考えながら、セラの言葉を待つ。だが、非常に珍しいことではあるのだが、いつでもなんでも話してくれるセラが今日に限ってはなかなか口を開かない。しかし逆にそれで確信した。
「……ティルと喧嘩でもしましたか」
「!」
 かまをかけたというよりもほぼ確認に近かったのだが、思った通りセラは解りやすく表情を変えた。
「……なんで……」
「僕に言いにくいようなことなんて、どうせ彼絡みでしょう。わかりますよ」
 溜息をついて、ライゼスは改めてセラに向き直った。
「……僕は、小さい頃から一緒にいますからわかりますけどね。普通は言わなきゃ相手が何を考えてるかなんてわからないものですよ。だから喧嘩になるんです」
「……だけど、我儘を言って振り回すのがいいとも思えない」
「僕には散々そうしてるくせに?」
「…………」
 言い返せずにセラは黙った。だが、すぐに謝罪を口にする。
「済まない……」
「だから、謝って欲しいわけじゃないですよ。嫌ならとっくに貴方の教育係なんてやめています」
 笑って言うと、セラも瞳を和ませた。彼女もわかっているから我儘を言う。結局、ライゼスはセラのどんな我儘も受け入れるし傍にいる。それは素直に我儘を口にできる幼い頃に互いに刷り込まれている感覚なのだ。
 大人になればそうはいかない。相手の気持ちを考えてしまうし、自分が傷つくことを恐れてしまう。
 だが、ティルにしても同じことだろう。嫌ならとっくに国に帰っているはずだ。そこまで考えて唐突に気が付いた。
(……だから、言えないのか……)
 おそらくセラが恐れているのは、彼が自分の元を去ることなのだ。しかしこれでは逆効果だろう。
 ライゼスは唇を噛んだ。気が進まないが、言わねばあのときの二の舞だ。
「……僕よりも、さっさとあの人に謝ってきたらどうですか。あの人は一度言ったくらいじゃ理解できないようなクソ馬鹿です。ちゃんと話してきなさい」
「クソ馬鹿って」
 呆れたようにセラが言葉の一部を反復する。いつも礼儀正しく丁寧なライゼスがそんな悪態をつくのは初めて聞いた。
「他に言いようがないでしょう。それくらい馬鹿なんですよ、あの人は」
 渋面になって言う幼馴染の、そんなに人を詰る姿も珍しい。だから、余程嫌いなんだと思っていたが、よく考えてみるとライゼスがそこまで感情を曝け出す相手と言えば彼の父かティルくらいのものである。
 そう思うと羨ましく思えてしまうから不思議だ。
「ふっ……」
「急に何を笑っているんですか」
「なんでもない……あ」
 つい笑ってしまった口元に手を当てようとして、握りしめたものを落としてしまう。地面に落ちた指輪を見て、それを受け取ったことも病院に支払いをすることもすっかり忘れていたことを思い出した。
「指輪?」
「ああ……ちょっと町で入り用になって、ティルに金を借りようと思ったんだ。それで払えって言われたんだけど途中でなぜか口論になってしまって忘れていた」
「なんだか色々と聞き捨てならないですが……これ、女性物ですよ」
「恋人への贈り物とか言ってた」
 面白くなさそうに言うセラを見て、ああ、とライゼスは合点がいった。それで喧嘩になったのだろうとなんとなくわかる。そして拾った指輪をしげしげと見て、苦笑した。
「だとしたら、彼は相当なマザコンですね」
「……?」
「刻印があります。――『DEAR.FIALLA(親愛なるフィアラへ)』。気が付かなかったんですか?」
「あ……」
 指輪を受け取り、内側の刻印を見てセラは絶句した。
「……お母上の形見ですよ。お金なら僕が貸します。早くそれを返して仲直りしてきなさい。でないと、また勝手にいなくなりますよ、彼は」
 意外そうな目で見られて、ライゼスは罰が悪そうに視線を外した。
「僕は別に構いませんが……心置きなく吹っ飛ばせる相手がいなくなるのは、少し残念ですからね」
 そう言う幼馴染を見て、セラは屈託なく笑った。