01:回想


「ああもう、やってらんねー」
 雨粒がフロントガラスを打ち、それを払うワイパーのけだるい音を、さらにそれよりもけだるい日野の声が裂く。
 先日の発砲事件について調べたがっている日野の思惑に反し、雑務に追われて終わる日々が続いていた。そんな中、「殺される」と悲痛な声で叫ぶ女性からの110番がが入ったのが今朝だ。その後、「刃物を持った男に襲われている、助けて」と続き、真夏と日野も女が震える声で紡いだ住所に急行した。
 だが向かってみれば女は無傷、一緒にいた男の説明するところによればただの痴話喧嘩で、ヒステリーになった女が腹いせに警察に電話しただけだという。だが当の女性は謝罪するどころか、「こうでもしないと彼は私の言うこと聞かないもの!」と開き直り、呆れた男と再び喧嘩が始まる始末だ。日野でなくとも愚痴のひとつもこぼしたくなる。無言なだけで、真夏の胸の内も、ほぼ日野と似たようなものだった。
 二人の悶々とした気持ちを乗せて、車は雨に煙る道路を署に向かって進んでいく。
「――真夏、ストップ!」
「!?」
 唐突に日野が聞いたこともないような慌てた声を上げ、驚いた真夏は反射的にブレーキを踏んでしまった。反動に体が跳ねた後、遅れて悲鳴に近い声が滑り出る。
「せ、先輩!?」
 心臓がばくばくと脈打っていた。幸いにして後続車はなかったが、事故にでもなれば大事だ。例え物損だろうが相手が全く無傷だろうが、悪ければ処分が下るし、警察車両を運転する資格も剥奪される。それ以前に、警察官として急停止などの危険な運転はもっての他だ。それらのことが真夏の頭を一気に駆け廻り、どっと冷や汗が出た。だが、そんな真夏に構わず、止まった車から日野が飛び出していく。
 事態を把握できず、真夏が目を白黒さながらも路肩に車を寄せている間に、だが日野は雨に濡れた背広を脱ぎながら助手席に戻ってきた。 「悪ぃ。なんでもない」
「は、はい……」
 それだけ言うと項垂れてしまった日野の様子は明らかにいつもと違い、およそなんでもないようには見えなかった。とはいえ、そんな日野にあれこれ追及することもできず、真夏は再びアクセルに足を乗せた。

 ■ □ ■ □ ■

 その日はとくに大きな事件もなく、奇跡的に定時に署を出ることができた。ごく自然な流れで日野に夕飯を誘われ、特に断る理由もなかったので真夏がそれを受けると、二人は莉子親子の店に足を向けた。
 真夏が密かに経営を心配するほどガラガラだったラーメン店は、そんな心配など大きなお世話で、夕飯時は多くの客で賑わっていた。考えてみれば、いつも真夏が店を訪れるのは深夜などの微妙な時間帯が多かった。こちらに気付いた莉子は「いらっしゃい!」と顔をほころばせたが、すぐに店主に呼び付けられて忙しそうに狭い店内を駆けまわっている。
 やがて、注文も聞かれないままラーメンが運ばれてきた。日野はいつもラーメンだし、優柔不断な真夏は大体莉子任せだから、確かにオーダーの意味はないだろう。
 苦笑しながらラーメンを啜り終えると、日野は珍しく焼酎を注文した。
「……昼間、何かあったんですか?」
 飲めないビールをちびちび飲みながらそれに付き合っている間、真夏はついに意を決してそう切り出した。
「ん? ああ、昼間は悪かったな」
 そんな風に応え、日野がグラスにほんの少し残っていた焼酎を干す。これで二杯目だった。ぱらぱらと客が帰りだし、幾分か余裕のできた莉子がタイミングよく空のグラスを取りにくる。
「焼酎? それともビールにします?」
「じゃあ、ビールで」
 間もなく莉子が中瓶とグラスを運んでくる。日野はまず、まったく減っていない真夏の中瓶を傾けた。
「……知り合いに似ていたんだ」
 唐突な言葉に一瞬理解が遅れたが、すぐに昼間の話だと気付く。舐めるようにビールを飲みながら、真夏は黙って言葉の先を待った。気づかいというよりも、あまり聞き上手でない真夏は、そうする意外になかった。
「俺と違って、正義感に溢れた真面目で誇り高い警察官だったよ」
「だった――って」
 思わず反芻してしまってから、慌てて真夏は口を噤んで、気まずさを隠すようにビールを煽った。そんな真夏の姿を見て、日野が苦笑しながら片手をひらひらと振る。
「ああ、違う違う。殉職とかじゃねーよ。退職して、今は普通に主婦してる」
 幾分かほっとして、真夏はグラスを置いた。だが、今度は違うことが気になって、再び口を開く。
「主婦、ですか」
 圧倒的に数が少ないとはいえ、婦人警官が珍しいというわけでもない。だが、日野の言う警察官が女性だと知って少し真夏は驚いた。
「まあ、なんつーか、ご近所? 家族ぐるみの付き合いで、幼馴染っつーのかな。高卒で警察になったから、歳は俺と同じだけど仕事では先輩だったよ」
 日野の独白のような昔語りは、そんな言葉で始まった。