終焉者は謳う 1
コツコツと扉を叩く音に、ランドエバー国王アルフェスは重い頭を上げた。しばらく眠れていないのだが、仮眠を取るように言われてもまるで眠れやしなかった。だがろくに寝てないのは、おそらくミルディンやヒューバートも同じなのだろう。その二人もいまこの執務室にいるが、ミルディンは青ざめているしヒューバートは絶えず貧乏ゆすりをしている。
アルフェスがノックの音に応えると、すぐに扉が開き、赤い軍服の美女が姿を現した。
「失礼します、陛下」
「ラルフィリエルか。待ったぞ。それで」
王女親衛隊隊長ラルフィリエルの姿を見てすぐ、アルフェスが椅子を蹴らんばかりの勢いで尋ねる。取り繕う余裕もない彼の心中を察すれば口には出しにくかったが、ラルフィリエルは冷静な声を落とした。
「二週間程前リュナがレアノルトのギルドで依頼を受けています。依頼の内容は資産家の護衛。しかしもうそちらに姫はいらっしゃいませんでした。その先の足取りは掴めていません」
ラルフィリエルの言葉に、ヒューバートが怪訝な顔で彼女の方を向いた。
「資産家の護衛だって? じゃあリュナ嬢の手伝いをすると言っていたのは、その護衛だったってことか?」
問いかけに、ラルフィリエルは沈鬱な表情で頭を横に振った。
「いや、元々リュナが受けていたのはラーサの野盗退治のようだ。その依頼を終えてから、また新しく依頼を受けている」
ますます一同は訝って眉をひそめた。
「てーことは、姫は賞金稼ぎの真似ごとが面白くなって、もっとやってみたくなったとか?」
「いくらセラが鉄砲玉だからといって、そんな理由だけで心配をかけるほど馬鹿じゃない。それにライゼスがついている。理由があって帰還が遅れるなら書簡くらいよこすはずだ」
今度はアルフェスがヒューバートの言葉を否定する。じゃあなんなんだよと頭を掻きむしるヒューバートの向かいで、ミルディンは青ざめながら膝で重ねた手をぎゅっと握りしめた。
「やっぱり、何かあったのね……」
震えながら呟くミルディンの肩をアルフェスが抱いたとき、またノックが部屋に響いた。今度は返事を待たずにドアは開いた。
「あー、エレン……またなんか怪しいことになってきたよー」
来室者の方を見もせずにヒューバートはその名を言い当てた。たいしたことではない。王の執務室に、そんなぞんざいな入り方をするのは一人しかいないからだ――自分以外には。まだ頭を掻きむしり続けながらヒューバートが呻くと、来室者はそれを一瞥し、抱えていた書束をその顔面に叩きつけて黙らせた。アルフェスとラルフィリエルがそれを見て見ぬ振りをする中、エレン――元親衛隊長にしてライゼスの母、エレフォ・レゼクトラはまっすぐにミルディンへと近づいた。
「妃殿下、少しお休みください。お顔の色が優れません」
「でも、エレン……」
不安を隠せず、か細い声を上げるミルディンを、安心させるようにエレフォは微笑んだ。その笑みを彼女が見せるのは、幼い頃から仕えているこのミルディンに対してだけで、それは今も変わっていない。
「姫なら大丈夫です。姫はお強い。それに、愚息がついています」
震えるミルディンの手を、エレフォが優しく包み込む。
「ライゼスは、必ず姫を守り抜くでしょう。アルフェスが貴女を守り通したように、必ず」
包み込んだミルディンの小さな手の、その震えが止まった。少しやつれた顔で、ようやくミルディンも小さく微笑んだ。
「……うん……」
それを見て、エレフォはもう一度だけ微笑み、そしてすぐにそれを綺麗に消し去った。
「ラルフィリエル、妃殿下を部屋にお連れしろ」
「はい」
いつもの鉄面皮に戻って淡々と指示を出すエレフォに、ラルフィリエルは短く返事をするとミルディンを伴って部屋を出た。それと入れ違いに、今度は違う兵士が姿を現す。
「失礼します、陛下。書簡が届いております」
「ラスか?」
「いえ」
僅かな期待を抱いてアルフェスが問うが、兵士が首を横に振って思わず落胆する。だが兵士が口にしたのは意外な名前に、彼は再び顔を上げた。いや彼だけではない。その場にいた誰もが驚きを顔に浮かべた。
「なんだって?」
思わず聞き返したアルフェスに、兵士が差し出し人を再び口にするその途中で、彼は慌てて書簡を受け取った。
■ □ ■ □ ■
馬車に揺られながら、ライゼスは沸き上がる焦燥をどうにか抑えようと努めていた。焦っていてはクラストに勝てない。常に正しい判断をせねば、セラは取り返せない。神経を細く細く研ぎ澄ませている間、馬車の中は沈黙が支配する。
「……やっぱり、ランドエバーに報告したほうがいいんじゃないでしょうか」
馬車は間もなくリルドシアの国境に差し掛かる。その頃になって、リュナはようやく沈黙を割った。ライゼスが色々と考えているように、彼女も考え込んでいたのだろう。そして、口にしたことが結論だったのだろうが、それを察した上でライゼスは否定的な返事をした。
「いくら油断していると言っても、大人しく僕らをノーマークにしておくほどクラストは馬鹿ではないでしょう。ただ今は僕を生かす方がリスクが少ないと考えているだけです。書簡など簡単に握りつぶせますし、強力な精神魔法を使う以上事実を捻じ曲げることは簡単でしょう。そうでなくてもこちらが勝手についていっただけと言われればそれまでです。しかしそれでは一時的にセラを取り戻すことはできても、また彼はセラを狙ってくる。一度失敗すれば、さらにそれを越える手段で。今度こそ確実に」
「そうなんですけど……」
リュナは俯くと、言葉を探った。だが、明確に考えを伝える良い言葉は出てこなかった。だから、曖昧なまま、告げる。
「でも嫌な予感がするんです……。強力な精神魔法、それにも勝る話術、それなりの身分があって、さらにランドエバーの国力を手にしようとしている。あの人は、マインドソーサラーとして人の心に敏感な面を持ちながら、憂うどころかその力を喜ぶ人です。もしかしたらあの人は――」
「世界征服でも目論んでいるんですかね」
冷めた目で、ライゼスがそんな風にリュナの言葉を継いだ。それは口に出してしまうと酷く馬鹿げているのだが、彼ならありうるかもしれないとリュナは思った。同時に、視えなかった彼の心をもう一度探る。
「だとしたら、クラストさんは、やっぱり憂いているんでしょうか。この世界は息苦しいと、彼は言っていました。そんな風には今は視えなかったけど、かつて本当に苦しんだときが彼にもあったんでしょうか」
「リュナ……」
心配そうなライゼスの声を受けて、リュナは慌てて顔をあげるとぶるぶると頭を振った。ツインに束ねた髪の尻尾がぺちぺちと頬を打つ。
「いえ、今はそんなの関係ありませんね。理由はどうあれ、お姉様とティルちゃんをクラストさんに渡すわけにはいきませんから」
きっと前を見据えて、リュナがきっぱりと言う。ライゼスも頷き、そして目を細めた。
「貴方達の苦しみは、僕に理解できないことかもしれませんが……、絶望を感じたことがない人などいないと思います。でも、だから喜びと希望を得られるんじゃないでしょうか」
ふとリュナと目が合い、ライゼスは恥ずかしそうに笑った。
「すみません、少し陳腐ですね。ですが本音を言えば、僕も自分を取りまく環境があまり好きではありませんでした。だからセラがとても眩しかった。自由を得ていても幸せでない人から比べたら、僕はセラに出会えたことで誰より幸せです」
曇りのないライゼスの瞳に、リュナも目を細めて穏やかに笑った。だが、ふとそれを消す。
「絶対にお姉様を助けましょうね!」
強い調子で言ったリュナの言葉に、ライゼスも笑みを消すと深く頷いた。