禁忌の姫 4



「――ティル!」
 その音を掻き消してセラが叫んだ名前に、ライゼスとリュナは弾かれたように通りを見た。しかしそれらしい人物は見つけられない。見間違いでは、とライゼスが声をあげようとしたときには、だがセラは既に走り出していた。
 店を飛び出し、雑踏をかき分けて無我夢中で駆ける。果たしてその人ごみの向こうに、銀の髪の人物を見かけて鼓動が高まる。その髪の短いことに一瞬躊躇するが、クラストに切られたことを思い出してセラは走る速度を速めた。
「ティル、待って――待て!」
 こちらに気付かず角を曲がっていくその人物に向け、焦れて叫ぶ。だが勢いよく角を折れたところで、強い衝撃に思わずセラは尻もちをついた。
「痛ッ」
「痛ってぇ!」
 思わず苦痛の声を漏らす向こうで、同じような声が上がる。だが顔を上げたときには彼はもう立ち上がり、心配そうにこちらに手を差し伸べていた。逆光で一瞬解らなかったが、光を弾くその髪は銀色で、覗きこんでくる瞳は確かに空の青で、息を飲む。だが、
「ごめんごめん。っていうか、君が追いかけてたのってオレ?」
 降ってきた声は、ティルのものではなかった。それでも、もしかしてという期待は消せないまま、セラはとりあえず体を起こした。はっきりと顔が見えるようになったその少年は銀髪碧眼で、ティルと同じような歳、背格好をしている。だがこちらをじっと覗きこんでいたその少年が突然ぱぁっと笑い、決定的に違う、と感じたのはそのときだった。こんな風に屈託なく、彼は笑わない。そういう笑顔で、少年は興奮したように話しかけてきた。
「セリエス! セリエスじゃない? オレだよ、覚えてない?」
「……エラルド王子?」
 その頃にはセラも気づく。リルドシア第八王子エラルド、つまるところティルの兄だ。最初の任務で知り合い、それ以降は会っていないが忘れるほど昔のことでもない。名を呼ぶと、エラルドは嬉しそうに笑みを深めた。差し伸べたまま止まっていた手をさらに伸ばして、一方的にこちらの手を取ってくる。ライゼスが追い付いてきたのは丁度そのときだった。
「セラ!」
 ライゼスの声にエラルドとセラがそちらを振り仰ぐ。するとエラルドは再び破顔した。
「やあ、ラス! 君も久しぶり。で、どうしたの二人とも。また任務? それとも観光? あ、ティアは元気? って、こんな大通りで聞いちゃいけないよね、あはは! ああそーだ、あとオレのこと王子って呼ぶのやめてね、エドだからね、エド。そういえばさっきセリエス、セラって呼ばれてなかった? それ愛称? オレもそう呼んでいー?」
 矢継ぎ早に質問を次から次へと並べたてたエラルドは、だが答える前にもう次の話に行っている。その様子と内容にセラとライゼスが揃って唖然とするが、当のエラルドはといえば「あれ、どーかした?」などと言いながらこちらを覗きこんでくる。
「……ラス。私はかねてから若干不思議だったんだ」
 そこから目を逸らして、セラは口元に手を当てるとライゼスにだけ聞こえるようぼそぼそと囁いた。多分、同じようなことを考えているのだろうと思いつつ、ライゼスもセラを見る。
「ずっと姫として城内で育てられていたティルがなんであんな性格になったのかと……今理由が解った」
「僕もです」
 ライゼスが半眼で同調したところに、エラルドが興味津津で割って入ってくる。
「なになになにー? 何の話?」
「あ、いえ。王子……いやエドが、ティルに似ているなって」
 王子、と言いかけたところでエラルドが口を尖らせたので、慌てて言い直しつつ――セラは曖昧に笑ってごまかした。愛称で呼ばれて満足げに笑みを戻したエラルドだったが、セラの言葉を最後まで聞くとまた表情を一転させた。
「とんでもない! オレあいつほど性格悪くないよ! それ聞いたら多分ティアも怒るよ。オレいつも馬鹿にされてたもん」
「馬鹿にって……貴方兄君なのでしょう?」
 青ざめながら首をぶるぶると何度も横に振るエラルドに、思わずライゼスが突っ込む。するとエラルドは腕を組み、悔しそうに頭を落とした。
「んなこと言ってもひとつしか歳変わんないしさー。どーしても口では勝てないんだよね。頭はもっと勝てないし」
 そんなエラルドの様子を見ていると、からかって遊ぶティルの姿が容易に想像できたりもする。だがその一方で、ふとセラは思い返すように遠くに視線をのばした。
「……でも、馬鹿にはしていなかったと思う。ティルは、兄弟の中でエドのことだけは信用してると言っていた」
 励まそうと思ったわけではないが、ふいに思い出してセラがそう言うと、エラルドは顔を上げた。そして、少し哀しそうな笑顔を見せた。
「そっか。でもオレはティアのこと、何も解ってなかったよ。同情するだけで、ちゃんと向き合おうとはしなかった。だからティアも、肝心なことは何も話してくれなかったんだと思う。ちゃんとあいつと向き合ってくれたの、セラだけだよ。……兄なのに情けないな」
 笑顔に哀しさが混じると、どことなくティルに似ている。そんな事実こそ哀しく、セラは伏し目がちに視線を落とした。だが、突如手を取られて顔を上げる。
「それよりさ、セラ。どうしてリルドシアにいるのか知らないけど、折角来てくれたんだから城に寄ってよ。レイス兄が会いたがってたよ」
「レイス? レイオス王子?」
 もう元の屈託ない笑顔に戻って頷くエラルドに、だがセラはほっとする間もなく眉根を寄せた。そして手を取られたまま、助けを求めるようにライゼスを振り返る。
 リルドシア第二王子レイオスは次期国王と言われる人物だ。実際ここ数年リルドシアの政は彼によって行われている。そんな重要人物に勝手に――しかもこの複雑な状況下でだ――会ってもいいものか判断がつきかねてのことだった。
「申し訳ありませんが、エラルド王子。連れを待たせていますし、急ぎの用がありますので」
 ライゼスも同じようなことを考えたのだろう、やんわりと断る方向に持って行ったのだが、
「いいよいいよ。オレも用事があるからさー。じゃあお互いの用事が終わってから城に行くって方向で、半刻後にここで待ち合わせね!」
 実にあっさりと。――そしておそらくなんの悪気もなく、一方的にエラルドはそう決めてしまう。再び唖然とするセラとライゼスをおいて、エラルドはあっという間にその場から走り去っていた。

 二人連れ立ってリュナの待つ食堂に戻りながら、セラもライゼスも腕組みして思案顔になっていた。ほとほと面倒なことになってしまった。
「なんだかエドと話していると、どう断ろうとしても城に行く方向になってしまいそうだ」
 腕を組んで歩いたままセラが溜め息と共に零し、ライゼスも頷いた。
「しかし今レイオス王子と会ったと知れれば、クラストに妙な勘繰りをされかねませんね」
「どうせ勘繰られるなら、いっそ一か八かでリルドシアに助けを求めてみてはどうだろう」
 ライゼスの不安に、セラがそれを逆手に取る提案をする。ライゼスは腕を解くと歩みは止めぬまま、考えこむように暫く俯いた。
「いえ……リスクが高すぎます。クラストの目的がはっきりしてない以上、今僕らが被ってる被害はあの人を人質に取られてるくらいです。果たしてリルドシアが、彼の為に動いてくれるでしょうか? この国にとっては彼はいない方が都合がいいかもしれません。それに保護を約束していたランドエバーの面子にも関わります。国交に支障が出るかもしれませんし迂闊なことはできませんよ」
 言い終わって顔を上げ――そしてライゼスは立ち止まった。それはセラが立ち止まった為でもあり、自分の発言こそが迂闊だったと自覚したからでもある。
「ラスまで、そんな言い方するんだな」
「――セラ」
 彼女の表情に、慌ててライゼスは再び歩き出たセラの腕を取って止めた。だがその先が継げぬうちに、口を開いたのはセラの方だった。
「すまない。ラスは私の代わりに色々考えてくれているんだよな。……私は目を向けたくないことから逃げているだけだ。責めるような言い方をして悪かった」
 苦味はあるものの穏やかに微笑う幼馴染の少女の、ここ数か月でやけに大人びてしまった瞳が何故か鋭く胸に刺さった。街の喧噪が遠ざかり、足元が酷くおぼつかない。掴んだ腕の感覚だけが手に焼き付くように強く残り、ライゼスはほぼ無意識にそれを引き寄せていた。そして驚くほどあっさりと倒れこんでくるセラの体を受け止める。何のリアクションがなくても表情が見えなくても、彼女が驚いているのが何となく気配で解った。
「……ごめん」
 だが短く詫びると、その驚きもすぐに消えたようだった。体を預けてくるセラの肩を軽く抱く。酷く大人になってしまったと思うのに、何故かそれにつれて彼女は小さくなっていく気がした。それは矛盾したことのように感じるのだが。
「ラスが謝ることはない」
「いえ……僕は意地を張ってたんです。すみません」
「……意地?」
 近すぎて、ライゼスがどんな顔をしているのかは見えない。体を離そうとするが、ライゼスは手を離してくれなかった。
「ティルの身の安全を最優先するべきです。……そう言いたかっただけですよ」
 違和感に、セラが首を捻る。彼がティルの心配をするのも珍しいことと言えばそうだが、もっと根本的に違うことがある。ようやく手が離れて、セラは改めて彼を見た。だが視線が合わない。それを見てようやく、彼が手を離さなかったのは顔を見られたくなかったのだと気が付いた。同時に、違和感の正体にも。
「ラス……ありがとう」
 肩に額を乗せて、セラは礼を口にした。彼が微笑んだのが、見えないけれどわかった。それを感じながら、セラはもうひとつ気が付いた。
「……背、伸びた?」
「どうしていきなり身長の話になるんですか」
 あまり愉快そうではないライゼスの声に、セラは吹き出すのを堪えた。ライゼスは昔からセラよりも身長が低く、長い間追いつけていなかった。密かにそれが彼のコンプレックスになっていたのを知っていたからである。
「済まない。今ふと思ったから」
 伸びたと言っても、まだ同じくらいだと思う。なのに急に大きくなったように感じて、セラは顔を上げると小さく頭を振った。