さよなら 3



 眠りから醒めたエズワース邸は、多少の混乱に陥りはしたものの、数刻後にはいつもの時間が流れ始めていた。というのも、眠りから醒めた時点で誰もクラストのことは覚えていなかったのである。
 突如睡魔に襲われた不思議を気にしなくなるくらいの時間の後には、皆本当の眠りにつき始め、傭兵達は警備についた。だが怪我までなかったことにはできないので、ティルは医務室へと運ばれていた。嫌々ながらライゼスの魔法で治癒され、だがそれでも折れた骨まですぐに元通りにはならないので、そのまま安静を言い渡されて医務室に残される。
 そうして人の気配が完全に消え去ってから、ティルはゆっくりと体を起こした。鈍い痛みに咳き込み、それによってさらに痛みが増す。痛みというのは、いつも悪循環だと嘆息しながらベッドを降りる。痛むが歩けない程ではない。ならばそれで十分だ。むしろ、今までの二人部屋ではなく一人になれる医務室に運ばれた分、怪我をしたのは好都合だとさえ思った。
 だが安堵するには早かったことを痛感したのは、手早く身支度を整えて、扉に手をかけたときだった。まだ開けていないそれが勝手に開き、その向こうの人物を見て呼吸を忘れる。
 驚いたようにこちらを見つめるアイスグリーンの双眸は、やがて鋭いものへと変わった。
「……どこへ行く気だ」
 こちらの格好を見て察したのだろう。突如来訪したセラは、そう言うと遮るように扉を閉めてその前に立った。鋭くこちらを睨むその瞳は、恐らくは咎めているのだろう。そこから逃げるようにティルは視線を外した。
「どうして……」
「怪我が心配だったから。だけど来て良かった。――出て行くつもりだったんだな?」
 端的に問われる。答えなければ肯定と取られることは解っていたが、事実そうであるので何も言えずにティルは目を閉じた。逸らしていても閉じていても、痛いくらいのセラの視線を感じる。その視線の方が、傷より何倍も痛いことなど彼女はきっと知らないだろう。
「ティル」
 焦れたように呼ばれ、ティルは目を開けると息を吐いた。
「……俺は、セラちゃんの枷になる気はないよ」
「私も、ティルの枷になる気はない」
 どうにか吐き出した言葉はあっさり切られた。突き刺さるような彼女の視線が逸れることもない。決してセラは目を逸らさないのだろう――残酷なほど。
「どのみち俺は、この件が終わればランドエバーを出るつもりだった。陛下にはもう話してある。予定が早まるだけだ」
 ピリ、と空気が震える。怒っているのだろうと、その気配で解った。意を決してティルは顔を上げた。セラの瞳は冷たく澄んだ色をしているのに、焼き尽くされてしまいそうな熱さでもってこちらを見つめてくる。いっそそのまま本当に焼かれてしまえばどれだけ楽かなどと詮無いことを考えているうち、続けようとしていた言葉はセラに遮られた。
「そんなに、私や父上は信用できないか?」
 憤りを孕んだ声に、それにははっきりと否定を示す。
「そうじゃない。セラちゃんにも陛下にも凄く感謝してる。だからこそ迷惑をかけたくないんだ。今後、あいつ以外にも俺の正体に気付く奴は出てくる。……俺の存在は危険因子にしかならないよ」
 生まれてから今まで、厄介者以外の何者にもなれなかった。今さら変わるわけなどない。求めることが過ぎたことだったのだ。そう思えば吹っ切れる気もした。
「俺は――いてはいけないんだ。どこにも」
 笑いながらそう言うティルの笑顔が、消えるべきなのだと言って笑ったあのときの笑顔と、アイスグリーンの瞳の中で重なった。彼は何も変わっていない。白亜の城に閉じ込められた姫君のまま、何も。そう悟って、セラが拳を握り締める。
「私は、ティルがいてくれて良かったと思ってる。そんなに長い時間一緒にいたわけじゃないけど、一緒に任務に出たり、宿題やってもらったり、ラスとの喧嘩に呆れたりするのも、私は楽しかった。……ティルはそうじゃないのか?」
 うまくまとまらない言葉をそれでもどうにか繋いで、その寂しげな碧眼にセラは訴えた。彼も同じだと思っていたのに、自分の知らないところで出て行こうとしていたことが、セラには辛かった。だがティルに言わせれば、それは見当違いも甚だしい。
「楽しいよ……。だから、いられないんだ……」
 意味が解らなかったのだろう。きょとんとした表情でセラが目を瞬かせる。それを見て、ティルは限界を感じた。無意識に伸ばした手がセラに触れると、後はもう止まれなかった。衝動に任せて、セラの体を強く抱き締める。
「好きだ。セラ」
 甘い言葉とはまるで釣り合わない、悲痛な声がセラの耳元を撫でる。
「もう、どうしていいか解らない……」
 体中の血が沸騰したと思うくらいの熱さの中で、セラはどうにか状況を飲み込もうと努めた。だが思考回路がまるで追いつかない。それでも、抱き締めるその力が緩んだ一瞬に、反射的にセラは身を引いた。ばん、と背中が勢いよく扉を叩く。そのままその扉から逃げだしてしまいたかったが、泣き出しそうなティルの顔がそれを止めた。
「俺は、ずっと誰かに愛されたかった。必要とされたかった。そのままそれだけを求めていれば、ここにいれば満たされたのかもしれない。でも、もう誰かじゃ駄目なんだ。セラじゃなきゃ、駄目だ……」
 告白というには余りに哀しく、それはまるで悲鳴だった。そんな声を彼が刻む度に、セラは体が冷えて行くのを感じていた。
「……それなら……」
 決して笑わない瞳も、縮まらない距離も、泣き出しそうな歌声も全部――
「全部、私のせい……なのか? ティルがちゃんと笑ってくれないのは――」
 俯いたセラから零れた声は震えていた。はっとして伸ばした、ティルの指先に雫が弾ける。
 それが、揺らいだ決心を、決して崩れない強固なものへと変えた。だから、最後にもう一度、彼は愛しい人へと手を伸ばす。だがそれは、愛撫するためでも抱き締める為でもない。
「さよなら、セラちゃん」
 混乱したセラの思考は、今度は混濁に沈んだ。急な衝撃を感じて、そしてそれをティルがやったのだと理解した頃にはもう視界が暗転している。そしてさらにその向こうで、セラは別れの言葉を聞いていた。

 ■ □ ■ □ ■ 

 その歌を、教えてくれたのは乳母だった。
 リルドシアの旧い唄で、母がよく歌っていたのだと教わった。口ずさんだ歌は、やがて掠れて途切れて消える。そろそろ夜明けだが、空はすすり泣くばかりで明るくならない。見上げて手をかざす。その向こうは昏く、光などない。
「母上……、私は、何処に行けばいいのですか……」
 何故母に問うたのかは解らないが、そう空に吐いていた。母に問うたのは――もしかしたら唯一偽りなき自分を知り、愛してくれたかもしれないから。だがそんなものは憶測にすぎず、そして仮にそうだとしてもこの世にいないのだから意味はない。
 そんなことより、ずっと確かなものがある。偽りで塗り固めていようと、その偽りごと向き合ってくれる存在。その存在さえあれば、どんな不条理も理不尽もそれでいいと思えた。だからどこまでも彼女を求めてしまう。あれほど愚かで狂っていると思った父と同じように、相手の意思までも捻じ曲げて踏み躙って、それを愛という名で塗り潰してまでも――
 自分の体を抱いて、ティルは身震いした。それは嫌だった。嫌だと感じる間に自分を終わらせなければならない。わかっているのに居場所を求めてしまう。
「だったらここにおいでよ。キミの居場所を作ってあげる」
 声は唐突だったが、だからとて驚くでも構うわけでもなかった。何もかもが酷く空虚で、酷く意味もなくて、何も存在しなくて地の上を歩いている感覚さえもないのだ。それでもティルはくっと喉を鳴らした。
「目触りだよ。消えるか俺を消すかどっちかにしろ、今すぐな」
 ティルは空から目の前の青年へと視線を移した。輝きのない青い瞳の中で、ハニーブロンドの青年がせせら笑う。
「余裕がないんだね。なら率直に言うよ。ボクの駒にしてあげる」
「いらねーよ。頭沸いてんの?」
「いずれセリエラはボクのものになる。傍にいたいなら、キミにとっても悪い道じゃないと思うんだけど」
「話にならねーな。妄想は一人でしてろ」
 ティルは歩き出すと、クラストの横を通り過ぎた。だがクラストの方も、それにいちいち動じたりはしなかった。視線だけはティルを追ったが、そのほかは表情も声のトーンも何もかもが同じまま。
「妄想ではなく、事実だよ。キミはボクの駒になるんだ。そのためにわざわざキミにちょっかいをかけたんだよ? セリエラに揺らしをかけたいだけなら、ボクはレゼクトラ家の番犬の方にちょっかいをかけた。その方が早いし確実だ」
 その言葉に――厳密には、その言葉に上がった名に。ティルは足を止めると、振り返った。酷く歪んだ瞳を受けてなお、クラストは笑みを深くした。
「ボクが言うことは絶対なんだよ。決められていることなんだ。セリエラはボクのものになる。キミはボクの駒になる」
「じゃあ俺も絶対を言ってやるよ」
 笑んだまま言葉を返さないことで先を促すクラストに、ティルは言葉を投げつけた。

「あの瞳は穢せない。番犬には勝てない」

 淡々とした声に短い言葉を乗せると、クラストはさらに口角を釣り上げた。
「だからキミを餌にするんだよ。そのためにキミは必要だ」
 ぬらりとクラストは剣を引き抜いた。
「キミの歌、なかなか良かったよ。だけどそれよりもっと甘美な旋律がある」
 心が壊れる音だよと、無邪気なまでの笑顔でクラストは囁いた。