心の行方 3



 走り去っていくリュナの足音が小さくなると、部屋は静寂に包まれた。なんとなく二人ともリュナを見送ったまま、扉の方に視線を向けたままでいる。だがそうしていたところで、リュナ、或いはティルが戻ってくるまで、どう考えても間がもたないことは互いに解っていた。だけど、うまい言葉をさっと思いつけるほど互いに器用でもない。
 そして大抵、こういう場合先に耐えきれなくなるのはセラだった。だとすればこれ以上気まずい時間を伸ばしていても無意味だと諦めて、セラは小さく息を吐いた。
「……今日は説教しないのか?」
 ぽつりと呟くと、ライゼスが扉から視線を外してこちらを向く。セラもそれに倣ったわけではないが、その見慣れた紫色の瞳へと視線を移した。
「して欲しいんですか」
「いや、そういう訳じゃないんだが、黙られるとそれはそれで居心地が悪い」
 真顔で言われ、ライゼスは苦笑した。それは、自分がティルが黙ると気持ち悪いと思うことと似ているのだろうと、なんとなくそんなことを思ってしまう。
「自覚があるなら、少しは素直になって下さい」
「別に意地を張っていたわけじゃない。けど体調が悪いと言えば、お前は休めと騒ぐだろう」
「ノルザで僕に休め休めと怒ってたのは誰ですか」
「言わせてもらうが、あの状態で長旅に耐えられたと私は思わない」
 皮肉っぽく返されて、セラもむっとしてライゼスを睨んだ。
「お前は私を頑固だとか意地っ張りとか言うが、お前の方が余程そうじゃないか。頼むから」
 だが、睨みも怒声も長くは続かなかった。結局、声音は懇願に近い色を帯びる。
「頼むから……自分を顧みないようなことは、しないでくれ」
 ――目が眩むような赤がフラッシュバックして、セラは震えた。さっき、夢で見た色だ。夢の内容は、もう霞んでよく思い出せない。ただ鮮烈な緋色だけが頭と目に焼き付いていた。
「――努力します」
 気のない返事に、セラは嘆息した。
「聞く気はないか」
「セラ――僕は」
 セラの声には苛立ちが含まれていて、それで済ますことを赦してくれそうにないのが解る。答えようと声を上げて、だがライゼスは一度言葉を切ると目を伏せた。そして、吐いた言葉をどう繋ごうかしばし迷う。
「僕は、だけど、他には何もできないんです。セラは僕より強いし、まあ短慮なところはありますが、ちゃんと考えて行動もできる。……騎士としても王女としても、貴方はもう一人前ですよ。いつも貴方が言ってる通り、僕のお守りなんか必要ないんです。それでも貴方を守ろうとしていること自体が、僕の意地なんですよ」
 迷いながらもどうにか形にした言葉に、セラが驚いたようにこちらを向いたのが気配で解る。だが、そちらを向くことはできなかった。考えをいくら整理したところで、変えようとしたところで、セラと向き合ったら結局は全部徒労に終わる自信があった。それが正しいのか間違いなのか、そんなことは解らないが、解らないまま流されるのでは今までと何も変わらない。それでは、この気まずい状況も打開できない。
「……私は一人じゃ何もできない」
 呟くセラが、どんな表情をしているのかは見えない。だけど、声で解ってしまう。いつだってそうだ。いっそそのことが辛く、伏せた目を閉じることにばかり力が入ってしまう。セラの声を聞くことすら辛くなりそうだったが、さすがに耳を塞ぐわけにもいかず、その間にも、セラの言葉は続いて行く。
「私は思い上がっていた。自分一人で何でもできる気になってた。でも、違う。私が私でいられるのも強くあれるのも、ラスがいてくれるからだ。だから」
 こつん、と。額に軽い衝撃を感じて、ライゼスは目を開けた。
「だから、危険なことはするな。ずっと傍にいられないとか言うな。ラスは、私にとって家族だ。それは、これからだって変わらない」
 触れ合う額から、セラの体温が伝わってくる。視線は床に落としたままだったが、ライゼスは微笑んだ。 「……熱、下がりましたね」
「話を逸らすな」
 くっつけていた額を離し、セラが不満げな声を上げる。同様に不満の色を滲ませた明るい翠の瞳を、ライゼスはまっすぐに見つめた。
(――――でも、セラ)
 口にしかけた逆説を、だが飲み込む。
 ライゼスにとってもセラは家族同然だ。だが所詮、家族同然であって、家族ではない。いくら親しくてもライゼスは王家の人間ではないし、臣下の一人にすぎない。
 だから、ずっと傍にいられるとは限らない。だが、今それをセラに告げれば、ノルザでの一件でできた溝がやっと埋まりつつあるのを、さらに広げてしまいそうな気がしてやめる。
「……わかりました。でもセラも危ないことはしないでくださいね。セラだってリルドシアでの任務のとき、あの人を庇って怪我したことあったじゃないですか。僕だってあのときは気が気じゃなかったんですから」
 そういえばそんなこともあったと、思い出してセラは気まずそうに頭を掻いた。そう前のことではないのだが、酷く昔の出来事の気がする。
「あれは――だってああしなきゃティルは死ぬつもりだっただろ。考えてる暇なかったし」
「ほら、僕だってそうですよ。その場になれば、そうなるんですよ。だから、もうしませんとは言えません。僕に危ないことをするなというなら、まずセラが危ない状況にならないで下さいね」
 ここぞとばかりに言われて、セラは思案するように宙を睨んだ。だがどう考えてもライゼスの言が正論だ。
(ティルの言う通り、考えすぎか……)
 ノルザでの一件から、頭にもやがかかったかのように、思考がはっきりしなかった。今思えば、ノルザの吸血鬼伯爵に、妙な術をかけられた影響かもしれないが――考えても答えが出ない悪循環にはまり、得体のしれない既視感がつきまとい、ただでさえ参っていたところに、ティルとも話しづらくなったのが追い打ちだった。
 だがゆっくり眠って、ティルとも元のように話せるようになり、ようやく心が少し落ち着いてきた。ティルの言うとおり、皆で助け合って皆が無事なら、それ以上深く考える必要はないと思えるようになっていた。