14.


 しばし、どちらも声を上げなかった。ジジ、とランプの火が揺れ、それで我に返ったようにセラが顔を上げる。
「隊長と、何を?」
「別に何も。体調はもういいのかとか、他愛のない話です」
 灯りが、ティルの白い顔を照らし出す。
「……昨夜は、すみませんでした。セリエラ王女」
「気にするな。それよりセラでいいと、今朝も言っただろう。敬語も必要ない」
「ですが……」
 遠慮しようとしてセラの方を見、そしてすぐに目を逸らす。真っすぐにこちらを見てくる翠の瞳は火よりも明るく、眩しささえ覚えて、ティルは顔を押さえた。その拍子に手がランプを掠め、床に落ちる。硝子の割れる音に、ティルは慌てて屈むと破片に手を伸ばそうとした。その手をセラが抑える。
「いい。危ない」
 そう言って彼女が止めるのも仕様がないと、ティルは酷く客観的に考えていた。それほど手が震えている。
「……呼んでくれないなら。私もティル王子と呼ぶことになるが」
 交わらない視線に、ため息交じりの声でセラがそんなことを言う。
「それは……もう王子でもなくなりますし」
「では王弟殿下とお呼び致しますね」
 声に刺々しさが混じり始め、ティルは手を引っ込めると苦笑した。
「わかったよ。セラ」
 少しだけ、いつもの彼に戻った気がして、セラは頬を緩めた。だが決していつもの彼ではない。それもまたわかっている。
『あの』
 沈黙が続けば気まずくなる。互いにそう思って発した声が重なって、そして同時に喋るのをやめる。
「……なんだ」
 今度はセラが先手を取り、仕方なくティルは口を開いた。
「わた……俺が、忘れてるだけなんだよな。世話になってる国の王女を知らないなんておかしな話だ」
「ああ。だが無理に思い出す必要はないよ。……また、覚えてくれればいい」
 セラが立ち上がって微笑む。だがティルは屈んだまま、やはりその顔も見ることができないままだった。
 増していく頭痛に耐えながら、続ける。
「なんで、そんなに俺に構うんだ?」
 ぽつりと呟く彼に、セラはまた溜息をついて目を逸らした。
「前も、そんなこと言ってたな……お前。そんなに理由が大事なのか」
「どんなことだって、何かしら理由はあるだろ?」
「そう……かな」
「じゃあ、聞き方を変える」
 ティルもまた立ち上がる。そこで初めて、彼はようやくセラの方を向いた。
「俺は、貴女の何?」
 今度は、セラの方がティルの目を見られなくなる。宙に彷徨った視線が、窓に向く。少しだけ開いたカーテンの隙間を見るともなしに見ながら、言葉を探す。
「……、友人……だよ」
 セラが絞り出した言葉に、ティルはやや表情を和らげた。
「……そう。俺に友達なんかいたんだな」
「ラスやリュナのことは覚えてるんだろう?」
「リュナ……? リュナちゃん?」
 ティルの脳裏に、ツインテールを揺らして笑う、小動物のような少女が浮かんだ。その名を聞けば思い出せるが、今まで頭になかった。
 ――マインドソーサラーの少女。
 唐突に、夢の中で弾けた光と、声を思い出す。
(……リュナちゃんが俺の記憶を封じた?)
 その仮説をひとまずは胸に仕舞い、ティルは別のことを口にした。
「ボーヤは友達じゃないよ。どっちかというと敵みたいな……もので……」
 口にしながら違和感を覚える。
 そもそも、なぜこんなにライゼスを敵視しているのだろうか。一見優等生然としていて仲良くなれそうにないところはある。それならなぜ、ライゼスとよく行動を共にしていたのか――考えてみればその理由もわからない。
 なのに、さっき窓から見た光景を思い出すと、胸がざわつく。
「……恋人なの?」
「は?」
 唐突なティルの質問に、セラが間の抜けた声を上げる。特に心当たりがないため、誰が、と聞きかけて、ふと気が付いた。少しだけ開いたカーテンの隙間――そこから見えるのは中庭の灯りだ。気が付いて、カッと顔が熱くなる。
「み、見てたのか……?」
「見えたんだ。不可抗力でしょ」
 不貞腐れたようにそっぽを向くティルに、セラは火照る顔を押さえると、長い溜息をついた。
「ラスは……幼馴染だよ……」
「好きなの?」
「なんでそんなこと聞くんだ」
 答えに窮して、セラは半ば自棄で問い返した。「はぐらかすな」と言われるかと思ったが、ティルは口元に手を当てると、考え込む素振りを見せた。
「なんで……だろ? でも前にも、同じこと聞いたような……」
 既視感に、ティルは記憶をめぐらせた。ランドエバーに来る前。リルドシアで。――港で。そのときには既にセラに会っていたということになる。
 ライゼスと口論したことはぼんやりと思い出せるのに、何故口論したのかは思い出せない。
「セラ……は、さっき何を言いかけたの?」
 どうしても思い出せない記憶繰り寄せるのを諦め、ティルが声を上げる。さっき声が重なったときのことだと察して、セラは口を開いた。
「いや……、ティルはこれからどうするつもりなのかと思って」
「そうだな。オヤジが死んだ今、もうランドエバーに匿ってもらう理由もないし。リルドシアに帰るよ」
 それは予想していた言葉ではあった。覚悟もしていた。
 ヒューバートにも釘を刺された。ランドエバーが彼にとって居心地の良い場所でないのも知っている。それでもティルがランドエバーにいるのは、単なるセラの我儘のせいだった。だからここを去るというなら、するべきことは一つだけだ。
「わかった……、ティルの故郷はリルドシアだもんな。帰れるなら、ここにいるより、きっとその方がいい」
 声はかすれなかったし、笑顔も作れた。鉛のように重い手を動かして、首にかけた革紐を手繰る。そこには小さな指輪が通っている。
 それはもう、彼が覚えていない約束だ。彼が果たすつもりがあったかすらわからない。それでも。
「これを……返さないと」
 震える手でどうにか革紐を解くが、受け止め損ねた指輪が澄んだ音を立てて床に落ちる。それをティルは無言で拾い上げて、驚いたようにまじまじと見た。
「失くしたと、思ってた」
 ぎゅっと指輪を握り締める。そして、改めてティルはセラを見た。ようやく、二つの視線が交わった。
 記憶が晴れなくても、もう頭痛はしない。胸のざわつきも、彼女のことを覚えていないのも、その理由はかだった。
「わかったよ。俺は、きっと――貴女のことが、好きだったんだな」
 セラが目を見開く。そうだとも違うとも言えない代わりに、違う言葉が喉を通りそうになる。
「……だったら……ッ」
 それを飲み込もうとしたときには、もう声が出ていた。結局、何が最善かを導き出したところで、肝心なところでそうできない。痛いくらいそれを感じながら、せりあがる言葉を止められずに投げつける。
「だったら、なんで忘れるんだよ!?」
 振り上げた手が、ティルの胸を叩く。その勢いにティルはよろめいたが、なんとか踏みとどまってセラの手を掴んだ。その目から涙がボロボロと零れるのを見るのは、叩かれた箇所よりずっと痛いと感じる。そう感じるからこそ、ティルは答えた。
「わからないけど……でも多分……傷つけたくなかったから」
 キッとセラは目を細めると、ティルの手を振り払って叫んだ。
「お前もラスと同じだ! いい加減にしろッ!!!」
「…………」
「傷がつかなければ幸せなのか!? お前達を代わりに傷つけて、それを見て、私に笑ってろって言うのか!!? そんなの不公平だろ! なんでだよ! 私が女だから!!?」
「…………、セラ」
「私はッ、飾り物じゃない! 傷ついたって壊れやしない! お前達が思ってるほど私は弱く――」
「そんなこと言えるのは、傷つけられたことがないからだ」
 不意に突き離すような声を向けられ、セラは顔を上げた。見上げたティルの顔は、見たことがないほど冷たく無表情だった。
「欲望を押し付けて傷つけることも……心を壊すことも……簡単なんだよ。貴女が思うより、ずっと……。傷つけずに傍にいるのが……愛する人を大事にするのがどれだけ難しいか、貴女は知らないんだ」
 まるで別人のような顔をして、噛み締めるように彼は続ける。
「俺は父上と同じ人間だ。できないんだよ……できないから……」
 それが人の弱さだと片付けたかった。だけど、それは自分の弱さから目を背けたかっただけだ。それを嫌と言うほど思い知った。『彼』に出会ってしまったから。
(だから俺は……あいつが嫌いだったんだ)
 切れていた記憶の糸が、少しずつ繋がっていく。だがティルはそれを阻止するように首を振った。思い出さなくていいのだと思う。そうすれば、今ならまだ、このまま去れる。なのに。
「ちがうよ、ティルは違う。リルドシア王は愛し方を間違えたかもしれない……でもティルは間違えない。私が間違わせたりしない!」
「……ッ、そうやって、いつも……」
 彼女はいつも(・・・)引き留める。
 リルドシアの内乱。
 吸血鬼伯爵の城。
 エズワース邸での夜。
 ルートガルド城の塔の上で。
 記憶に足りていなかったものが、ひとつ、またひとつとその穴を埋めていく。
 それと同時に、埋まらない胸の穴も、孤独の寂しさも、愛されない辛さも、嘘のように引いていく。だけど知っている。それが、全てを上回る苦痛の始まりだということを。
「……、俺はきっと……記憶吹っ飛ばすくらい馬鹿なことやったんだろ。それを聞いても今の俺じゃ受け止められない。だから何も言わないんだろ? そんな弱いままじゃ……やっぱりここには居られない」
「ティルは弱くない。でも弱くてもいい。私が守るから……それじゃ、駄目なのか……?」
「駄目だよ。女の子を守るのは男の役目って言っただろ。忘れた?」 
 はっとして、セラは顔を上げた。
「……珍しいね、ドレス。化粧もしてる?」
「…………」
 化粧を落とさないように、ティルが服の袖で涙を押さえる。
「綺麗だ。でも俺は……いつもの剣振り回してるセラちゃんも、可愛くて好きだよ」
「……、馬鹿……」
 涙の溜まった瞳で、セラが微笑む。それを見たとき、ティルは限界を感じた。
 今まで抑えてきたことも、堪えてきたことも、曖昧な記憶の向こうで霞んでいる。そのままそれらを意識の外に押しやるのは容易だった。
 欲しいものが手に入ったことなど一度もない。そしてきっとこれからもない。だったらせめて一瞬でもいい。
 未来などどうせないなら、どうでもいい。
(ほら、やっぱり俺は……こうなるんだ……)
 だから傍を離れようとした。なのに今この瞬間でさえ、彼女は突き放したりしない。だから、それが彼女の優しさでしかないとわかっていて、それに縋ろうとする自分を止められない。
「……あいつに伝えてよ。お前が殺しに来るのを待ってるって」
 カーテンを通しても月明りは眩しく、セラは目を細めた。月光を背に佇む彼は、相変わらず例えようもないほど美しく、そして相変わらず哀しい目で笑う。だからまた、言ってはいけない言葉が唇から滑り落ちてしまう。
「……行かないで」
「行かないよ」
 なんでもないように彼は答える。セラが目を開けるとティルはいつものように笑った。
「愛してる、セラ」
 そして、セラも笑う。ただ一つ上手くなった作り笑いを張り付けて。なんでもないように答えて見せる。
「どうせ、嘘なんだろ……」

 それは、白い月の輝く夜だった。