12.


 一夜明けて夕方、セラは城内の回廊を歩いていた。ふと窓の外を見ると、昼間は降っていた雨が上がっている。中庭に降りると、ちょうど弱々しい光ではあるが橙の太陽が雲の間に姿を隠そうとしているところだった。
「セラ」
 呼び止められて振り向くと、ライゼスがこちらに向かって来ており、セラは薄く微笑んだ。
「……あの人の具合は?」
「うん。昨夜は熱があったけどそれも下がったし、調子も良さそうだ。記憶は……ところどころ曖昧で、とくに最近のことは全く覚えてなかった……あのことも、多分。自分の出自など、過去のことは大体はっきりしてる」
「貴方のことは?」
「…………」
 少しだけ、セラの表情が曇る。それで察したので、ライゼスは口を噤んだ。そんな彼の様子を見て慌てたようにセラが笑顔を戻す。
「……私のことは、いいんだ。少しほっとしてるくらいだから」
 笑みは取り繕った感が大きいものの、言葉どおり表情には安堵が見える。少なくともそれは無理をしているようには見えなかったが、ライゼスの心境は複雑だった。
 改めてセラを見れば、昨夜までは酷かった隈が少し薄くなったように見える。
「眠れましたか?」
「少し。私が倒れてしまっては元も子もないからな」
 疲労も朝方よりはマシに見えるのだが、何か違和感がある。凝視していると、セラは少し気まずそうな顔をした。
「な、なにか変か?」
「いえ、変というわけでは……ないんですが」
「……リズに少し化粧をしてもらった。あんまりひどい顔だと言うのでな」
「あ……そうでしたか。すみません、疎くて」
 ライゼスも罰が悪そうに頬を掻き、セラが「ははっ」と声を出して笑う。
 久しぶりに作ったものではないセラの笑顔を見て、ライゼスも口元をほころばせた。しばらく笑い合って、どちらからともなくやめる。
「……セラ、こんなときですが……、少し城を空けても構わないでしょうか」
 意を決したようなライゼスの問いに、セラは少しだけ迷うような素振りを見せたが、やがて率直に聞き返す。
「何故?」
「…………」
 ライゼスもまた、すぐには答えられずに視線を外す。
 だが結局はぐらかすのは得意ではなく、また、セラに隠すべきことでもないと判断して口を開いた。
「実は、今僕は魔法が使えません」
「……何故だ?」
 またセラが同じ問いを繰り返す。今度はライゼスはすぐに答えを返した。
「あの人の傷を治癒するのに使った禁呪は、本来魔力や生命力を付与するものですが、僕の力では僕自身の力を譲渡するのが精いっぱいでした。それに禁呪は僕が普段使用する精霊魔法の法則とは全く異なるもので……簡単に言えば、禁呪を使用したことによって僕の精霊魔法の行使に問題が起こった、というところでしょうか」
 精霊魔法の一般的な使用法は、印によって精霊を集め、呪文で具現するものである。この他にも二つ方法があり、精霊よりも強い力があれば印も呪文もなく精霊を支配して思うままに操ることができる。ライゼスは光の精霊に限り、印や呪文をある程度省いても魔法を使うことができた。しかしもう一つの使用法――禁呪は、精霊を従える力の無い者が自らの生命力を捧げて精霊の力を借りて使用するものだ。
 精霊と人間の間には上下関係が使用する。禁呪を使用するということは、精霊に自分の立場が下であると示すようなものだから、ライゼスは従来の使用法を用いることができなくなっていた。それだけなら再び精霊を従えるだけの力を示せばいいのだが、ティルに魔力を渡した今となっては、それも難しかった。
「もうずっと……使えないのか?」
 セラが顔を曇らせる。魔法はライゼスが幼いころから研鑽を重ねてきたものだ。それが使えなくなってしまうのは、自分が剣を使えなくなるのに等しいのではないか――そう考えると、セラの心中も穏やかではなかった。
 しかし、これにライゼスは首を横に振った。
「いえ、体力と同じようなもので、魔力もいつかは回復します。体力よりは時間が掛かりますし、あの人に渡した分の魔力は返してもらわない限り戻らないでしょうけど……それでも今まで使っていた魔法くらいは残った力で使えるはずです」
「でも実際には使えていないんだろう?」
 痛いところを突っ込まれて、ライゼスが眉間に皺を寄せる。端的に言えばそういうことだが、色々推察したことを一言で終わらせられるのは釈然としないものがある。セラ相手に、今に始まったことではないのでそれに対しての苦言は飲み込み、ライゼスは先を続けた。
「ですから、僕より魔法に詳しい人の知恵が必要なわけで……」
「それで城を空けると……、父上では駄目なのか?」
 アルフェスやミルディンも光魔法の術者ではあるが、ライゼスは首を横に振った。
「陛下達も魔力は強いですが、今僕が直面している問題を解決するには魔法学に詳しくないと無理だと思いますし……それに魔法が使えない理由を詮索されても面倒なので。城下町にいるエスティさんを頼ります。既にリュナに伝言をお願いしてますので、今から出て、明日には戻ります。そのくらいなら誤魔化せるでしょう」
 なるほど、とセラは頷いた。エスティは先のブレイズベルクの遺跡調査にも来ていたアルフェスの友人であり、古代魔法にも精霊魔法にも精通しているし、リュナの眼帯のようなマジックアイテムを作ることもできる人物だ。確かに彼ならなんとかしてくれるのではないかと、魔法に疎いセラもそう思った。
「本当はもう少し落ち着いてからにするか、迷ったんですけどね……」
 使えない理由をうまくでっちあげる自信などないし、それでなくとも魔法を使えないままにするつもりは元よりないが、急いだのは当のティルに最初にバレてしまったからである。
(本ッ当にめんどくさい……)
 心の中で悪態をつく。詮索されれば、誤魔化しても小さな隙から彼は察しかねない。それをきっかけに全ての記憶が戻れば、また壊れてしまうかもしれない。
 そんなライゼスの思考を、セラの謝罪が割った。
「すまない。お前やリュナに比べ私は……何もできなくて」
「何言ってるんですか。僕らには剣術大会で優勝するなんて芸当できませんよ」
「そんなの……」
 否定しようと開きかけたセラの口に、ライゼスが人差し指を突き付けて止める。
「意味がない、なんて言わないで下さいね。……笑えるようになったじゃないですか、あの人」
「でも、それも覚えてない……」
「あの人の記憶から消えても、事実は消えません。セラにも、セラにしかできないことがありますよ」
 セラはしばし黙したままだったが、やがて顔を上げると、微笑んだ。
「……わかった。不在中こちらの心配は無用だ」
「ありがとうございます。では、宜しくお願いします」
 力強い返事を返されて、ライゼスは踵を返した。中庭を出ようと足を進め――ふと、セラを振り返ったのは意識してのことではない。
「?」
 こちらを見て、セラが首をかしげる。
 太陽は既に落ち、薄闇が辺りを包み始めていた。昼間降った雨の雫を踏みしめて、ライゼスはセラの元へと駆け戻った。そして、その腕を引く。
「……ラス?」
「セラ」
 急に抱き寄せられて、セラが不思議そうに呼んだ名前は、ライゼスが呼んだ名にかき消される。
「貴方は思うように生きて下さい。セラのどんな我儘だって、僕は叶えてみせる。貴方が選ぶどんな道だって、僕が守ってみせるから」
「……」
 通り抜けた風がセラの髪を巻き上げる。ふわりと花のような香りが鼻孔をくすぐり、ドキリとしてライゼスが体を離す。
「……髪も、リズが?」
 半ば照れ隠しの言葉は、唐突な質問になった。それでもセラは察したのだろう、「あぁ」と声を上げる。
「よくわかったな? 風呂まで着いてきて、えらく長い間捕まった。肩が凝りそうだった」
 うんざりしたようなセラの言い様に、ライゼスが苦笑する。憮然としたまま、セラは腕を組んだ。
「やっぱり苦手だな、こういうのは」
「でしょうね」
 セラの心情を察してそう言うが、彼女が自分で言うほどドレスも化粧も似合ってないとはライゼスは思わない。だがそれを言うのも、いつも通りがいいと言うのも、どちらもうまく言えそうにない。多分それは、自分の役割ではないのだろう。
 今のこの心情を表現するなら、溜息なのか苦笑なのか。結局はそのどちらも飲み込んで、ライゼスはいつものように穏やかに笑った。
「では、行ってきます」
 そう言い残して、今度こそライゼスの姿が中庭から消える。
 セラは笑顔でそれを見送っていたが、その背が回廊の向こうへ消えてしまうと、笑みは消えた。
「ありがとう。でもこれ以上……、我儘は言えないよ……」
 手の平がまだ温かい。幼い頃からよく知る体温が残る手を見下ろして、セラは呟いた。それは、迷子の子供のように頼りない声だった。