8.



 石がひとつだけ嵌まったその指輪は、他にこれといってなんの装飾もないものだった。石は青く輝いていて、ティルの瞳の色とよく似ている。厳密には、持ち主である彼の母――フィアラに似た色なのだろう。一度だけ、クラストの魔法の中で見たことがあるフィアラは、ティルと瓜二つの美しい女性だった。
 いなくなるときに返してもらう――それは婉曲な別れの言葉だ。それでも受け入れるしかなかった。しかも受け入れた所で黙って行かない保証などない。
 彼は平気で嘘をつく。それがどれほど相手を傷つけるかなど知りはしない。自分にそれほどの価値がないと思っているからだ。
「セラ」
 通りの向こうから名を呼ばれ、セラは指輪を握りしめた。往来からライゼスがこちらへ向かって歩いてくる。
「……仲直りできなかったんですか」
 近づくなり、そう尋ねてくる彼に、セラが笑顔を取り繕う。
「いや。そんなことないよ」
 いつもと変わりなく笑えた筈だ。その自信はあった。なのに、歩き出そうとするこちらの腕を、ライゼスが掴んで止める。
「なら、なんでそんな顔してるんですか?」
「……なにか、変かな」
「僕を誤魔化せると思わないで下さい」
 そしらぬ声で答えるセラに、ライゼスは鋭い声を返した。彼女は振り返らなかったが、その背が震え出すのは直ぐだった。道を行き交う人が、ちらちらと振り返っていく。ライゼスはセラの手を引くと人の気配がない路地裏に入り、ハンカチを差し出した。
「顔、拭いた方がいいですよ。僕が泣かせたみたいじゃないですか」
 不満半分軽口半分に声を掛けると、セラは少し笑った。だがさっきと違って今度はお世辞にも取り繕えているとは言えない笑顔だった。ハンカチを受け取ろうとする手は震えていて、ライゼスは溜息をつきながらセラの涙を拭いてやった。
「ごめん……もう、甘えたくないのに」
「寂しいことを言わないで下さい。貴方に頼られなくなったら、割とどうしていいか分からないんですよ、僕も。ずっと同じままではいられないとしても……あまり急に変わってしまわないで下さい」
 それは慰めでも気休めでもない偽らざる本音だったが、セラは項垂れたままだった。彼女とどうなりたい等とは思ったことも考えたこともないが、強いて言えば今のままでいたいと思う。ティルが現れたとき、その均衡が壊れそうで嫌だった。だが結局のところ、今もセラの傍にいられるのは彼のお蔭なのかもしれない。
 彼が現れなければ――恐らくとっくに教育係としての任を終えて、王都を離れていたのではないかと思う。自分のセラに対する感情が何なのかなど考えもしなかったのかもしれない。それを後悔する日がいつか来るのではないかと、薄々気付いてはいても。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、ようやくセラが口を開いた。
「……ありがとう。でも……二人との婚約は解消してもらおうと思うんだ」
「……は?」
 だが飛び出したのはそんな思わぬ言葉で、ライゼスはそれだけ返すのが精いっぱいだった。ライゼスの動揺に構わず、セラは言葉を継ぐ。
「元老院に言って他の相手を探してもらう。その人と結婚する。それなら元老院も文句ないだろうから。これが最後の我儘だ」
 涙はまだ流れていたが、セラは笑った。今度はちゃんと笑えていた。何かを吹っ切ったような大人びた笑顔は、だがライゼスの胸を締め付けた。
「貴方の我儘なんて慣れてますけど。でも、それは納得できません」
「いつも納得してないだろ」
「そうですけど、せめて理由を聞かせて下さい。当事者なんですから僕には聞く権利があるでしょう」
 このままだと、セラは言ったことを強行するだろう。勝手ばかりするセラに元老院は呆れるかもしれないが、今後は言うことを聞くとなれば手の平を返すに違いない。ライゼスは騎士団にも院にも所属せず、セラの我儘を容認し続けてきたことで元老院の心証は良くないし、ティルなどよそ者というだけで毛嫌いする者は多い。
 セラの肩を掴んで強く問いかけると、セラはこちらから目を逸らし、吐き捨てるように答えた。
「もう好きだとか恋だとかはたくさんだ。周りを振り回す自分にも嫌気が差す。こんなに苦しいなら、もう、何の関係もない人がいい」
「セラ……」
 セラが肩の手を振り払おうと身をよじったが、ライゼスは手に力を込めた。
「貴方はそうやって、すぐに苦しいことから逃げようとする。いつもそうだ」
 いつだって甘やかしてくれた幼馴染から零れた冷たい声に、セラは泣くのをやめると顔を上げた。
 セラは王女だ。どれほど甘やかされたとしても枷はある。だからライゼスは彼女のどんな我儘も受け入れてきた。それがこの状況を引き起こしたことは解っているが、それでもそうしてきたのはセラを苦しめる為ではない。結局厳しい声は続かず、ライゼスは溜息と共に言葉を吐き出した。
「……それで貴方が苦しみを忘れられるならいいです。でも、貴方が幸せになれないことでは許せませんよ。貴方が望んだ相手と添い遂げるなら僕は喜んで傍を離れます。だけどそうじゃないなら納得できません」
「何が私の幸せかなんて、お前にわからないだろ」
 突き放すように言われても刺さりはしないのは、やはりわかってしまうからだ。それが、こちらを刺す為に放たれた言葉ではないということが。それが逆に痛かったりするのだが、顔には出さずにライゼスは穏やかに答えた。
「わかりますよ……セラのことなら。僕が今まで一度でも間違ったことを言いましたか?」
 ぐっとセラが言葉に詰まる。ないはずだった。ライゼスの記憶にないことをセラが覚えているはずもないだろう。
 うなだれる彼女を抱きしめて慰めるのは簡単だ。逆にそれを堪えるのも簡単だった。
 傍にいることも、傍を離れることも、セラが幸せであるならそのいずれもできると思う。なのに、自分からは動けないでいる。二年前からずっと。
「なら、教えてくれ……私はどうすればいい。どうしてこんなに苦しいんだ……」
「…………」
 開きかけた口を、閉じる。  言ったところで何かが変わるわけではない。どのみち、選ぼうが選ぶまいがセラは苦しむことになる。だから結局手を引くことも離すこともできずに、いつもと同じように、破綻への道が加速しないように――ゆるやかにゆるやかに、速度を緩める。
「帰りましょう、セラ。疲れているんですよ。一晩ゆっくり休めばまた違う答えが出るかもしれません」
「……」
「嫌だと言うなら、なぜ金が入用になったかと、その手の怪我の理由を今からじっくり聞かせてもらうことになりますが」
「……帰る」
 渋面になりながら、セラが呟く。路地裏を出て行く彼女を見てほっとする。
 ひどく不安定な地盤だが、今日は支えることができた。だが明日はわからない――。
 溜息を殺して、ライゼスはいつも通り彼女の後を追った。