SUMMER ROMANCE 4



 遠くから呼ぶ声に、意識が掬いとられる。先ほどまでまとわりついていた女の声とは別の、もっと高く、強い心配を帯びた色。
 朦朧とする意識の中で、セラは海に引きずりこまれたことをなんとなく思い出した。いくらもがいても海面には遠くなるばかりで、息ができず意識が遠くなったところまでは覚えている。その間、ずっと女の声がまとわりついていたことも。
 あれは、なんだったのだろうか。
 その思考をリュナの必死の声が裂き、セラははっとした。今はそれよりも意識を覚醒に向けなければ、リュナや――ライゼスやティルに心配をかけるだろう。そう思って返事をしようとし、そして愕然とした。
(声が、出ない――)
 さらにセラを愕然とさせた理由には、体は動いているのだ。なのに声が出ない。それどころか、動いている体さえ、自分の意思とは反していた。
(どういうことだ?)
 混乱したセラの思考を置き去りにして、体は意思と違うところで、まるで何かに操られているように勝手に動いてゆく。

「お姉様!」
 ようやく目を開けたセラに、リュナは声に安堵をにじませた。
「ああ、良かったです! 監視員さんがすぐ助けに来てくれたんですけど、ライゼスさんもティルちゃんも泳げないくせに飛び込んでくるし、ほんと大変だったんですよ」
 言いながら振り返るリュナの視線の先で、男二人が伸びている。水難事故を防ぐために、王都の海水浴場にはかならず騎士団から派遣された監視員がいる。今しがたのリュナの言葉通り、急に海に沈んだセラも、それに気付いて後先考えず飛び込んだライゼスとティルも、揃って救助される事態となっていた。その後休憩所へと運びこまれて今に至っている。
「ティルちゃんはともかく、ライゼスさんはもう少し冷静かと思ってたんですけどねえ」
「……それはどうもすみません」
 ため息と共に呟かれたリュナの言葉にライゼスがむくりと起き上がる。何か言い返したくても、何も言い返せないのが事実だった。生憎と泳げるようになる魔法などなく、かといってじっとしていることもできなかった結果である。しかし、日頃セラに短慮だのなんだの説教をしている立場としては、決まり悪いことこの上ない。
 それを咳払いで誤魔化すと、ライゼスは今までの仏頂面を装った。
「けど、セラが調子に乗りすぎるのもいけないんですよ。いくら運動に自信があるといってもこういうこともあるんですから、これからはもう少し慎重に――」
 ついつい小言にすり替えるライゼスだったが、ふとセラの様子がおかしいのに気付いて言葉を止めた。
「セラちゃん?」
 すぐにティルもリュナも異変に気付く。体は起こしたものの、セラの目はうつろで、焦点も合っていない。ライゼスは小言をやめるとセラの両肩を掴み、ガラス玉のように生気のない翠の瞳を覗き込んだ。
「大丈夫ですかセラ? 気分が悪いんですか?」
 だがライゼスがそう尋ると、唐突にセラの瞳に光が戻り、焦点がぴたりと合う。見つめ返してくる双眸にこちらを写し取って、そしてにこりと彼女は微笑んだ。
 ――ぞくりと。
 その瞬間、何故か肌が粟立った。そこにいるのは確かにセラなのに、知らない気配を感じてライゼスがのけぞった刹那、視界が急にぐにゃりと歪んで意識が遠ざかる。
「ん、あれ? 動けるようになった」
 がくりとライゼスが頭を垂れ、それとは反対にセラは顔を上げるといつもの調子で間延びした声を上げた。手を目の前まで持ち上げて開いたり握ったりしている彼女を、リュナとティルがぽかんとして見つめる。
「……お姉様?」
「ああ、リュナ。さっきは済まない。なんだか突然、何かに引っ張られて」
「なななな、何かに引っ張られて? 怖いこと言わないで下さいよ、お姉様。ねぇ、ライゼスさん?」
 セラの穏やかでない言葉にリュナがツインテールを逆立てて脅え、それを誤魔化すようにライゼスに話題を振る。だが、彼からはなんの言葉も返ってこなかった。両膝をついて、手はもうセラの肩から滑り落ちてだらんとしている。その様子は明らかに異様で、まだぼんやりしながらもセラが怪訝な顔をする。先ほどとは逆に、今度はセラがラスの肩を掴んで揺すった。
「ラス?」
 呼びかけると素直に彼は顔を上げた。だが、見慣れているはずの紫の瞳に、セラは何故か妙な違和感を感じた。怪訝な表情を消せないまま、セラとライゼスはそのまま数秒見つめあい――
「――――!?」
 突然に視界が動く。だが何が起こったのか、まだセラには解らなかった。解るのは素肌にそのまま伝わる温かさと、首筋にかかる吐息の感触だけ。
「……え」
 唐突に引き寄せられて、その咄嗟の行動に思考が追い付く前に抱きしめられたのだと。ようやく理解したものの、今度はその行動の意図が理解できずに混乱する。なにより、こんなに間近にいるのに、どうしてかそこに幼馴染の存在は感じられなかった。そんな様々な不可解と、それから抱きしめて離さないライゼスにどうしていいか解らないでいたのだが、リュナのうっとりした声にふと我に返る。
「ライゼスさんてば……だ・い・た・ん」
 そちらに目を伸ばすと、リュナが顔を真っ赤にして満面の笑顔で呟いた。
「いや違……」
 何がなんだかよくわからいままセラが答えるが、自分でも何が違うのかがよくわからない。そのまましばらく時間が流れたが。
「――――ッッそーゆー抜け駆けは認めんー!」
 我に返ったらしいティルが、ライゼスのパーカーのフードを掴んでひきはがす。リュナが物凄い形相で睨んできたが、大人げないと言われても譲れないものは譲れない。だが、振り返ったライゼスがに手を叩き落とされ、ティルはリュナからライゼスに視線を戻すと先ほどのリュナに負けない形相で彼を睨みつけた。
「んだよ、なんなら今ここで決着つけるか?」
 半ば自棄で叫びながらティルが刀に手をかけ、応じるようにライゼスも右手を上げる。
 ――だが、彼はその手を翻すと、自分に当てた。

『光よ!』

 真夏の海に白い光が爆発し、一瞬視界がフェードアウトする。短く高い叫びが耳を掠めたかと思った瞬間、光は消えた。
「……あなたに抜け駆けだのなんだの言われるのは心外ですが」
 誰もが事態を理解できないでいる沈黙に、ライゼスの穏やかな声が流れる。
「さっきのは僕じゃありません」
 熱を帯びる顔を抑え込むように、至って冷静になるよう努めながら咳払いしてライゼスは続けた。だが威嚇する猫のように、ティルは尚も噛みついてくる。
「白々しい嘘を――」
「だから違うって言ってるでしょう! 万年発情期のあなたじゃあるまいし、僕が突然あんなことするわけないでしょうがっ」
「確かに」
 今にも刀を振り回しそうなティルの頭を思い切りはたいて叫んだライゼスに、腕組みしたリュナが何度も頷く。味方を失って、仕方なくティルが刀から手を離した頃には、少し冷えた頭はちゃんと事態のおかしさを告げてきた。
「じゃあ、なんなんだよ?」
「何かに乗り移られたというか……、多分、セラが海で“何か”拾ってきたんじゃないですか」
 セラを振り返り、だがそこでライゼスは顔色を変えた。また、セラの様子がおかしくなっている。ぼんやりと虚空を見つめる彼女を見て、しまったとライゼスは呟いた。
「滅しきれてない? また、セラに――」
「きゃああああああ!」
 セラの肩を掴もうとした手が、鋭い悲鳴と共に勢い良く叩き落とされる。
「あなた怖い! 何その光! やだ近づかないで!!」
 きゃあきゃあと叫び、身をのけぞらせるセラを見れば、何かに乗り移られたというライゼスの言も信じるより他に無くなってしまう。だが信じたとしても、あまりに目の前の光景はいつものセラとかけ離れすぎて、ティルもリュナも唖然としたまま硬直した。
 ちなみにライゼスは――目の前のセラがセラではないのだと解っていても――拒絶されたことになんとなくショックを受けてしまうのだった。