名前


 エタンセルが西側最大の王国なら、クラフトキングダムは東側で一番大きな国になる。しかし、エタンセルが東西問わず有名な国であるのに対し、クラフトキングダムは東側の人間ですらその実態は知られていない、閉ざされた王国だ。険しい山の向こうに楽園を築き、一切外界と接触しない。そう伝えられている。
「まさか、クラフトキングダムから来たとか言わないよな?」
「クラフトキングダムから来ましたよ?」
 軽い頭痛に、青年がこめかみを押さえながら呟くと、少女――アリーシアは小首を傾げ、さも当たり前のように答える。
「さぁ、出発出発! 陽が暮れてしまいますー」
「あ、おい……」
 アリーシアはくるっとターンすると門の外へと駆けだし、外からこちらに向かって大きく手を振る。
 本当に頭がおかしいのかもしれない。男は一瞬本気でそう考えたが、さきほど彼女の手で輝いていたカードが引っかかっていて結論を出せずにいた。
 傷を癒したり魔物を撃退したりといった魔法なら、一般の冒険者でも使える。しかし魔術を用いた予知となれば、誰にでもおいそれと使えるものではない。
 否、誰にも使えない筈なのだ。予知の魔法を使えるのは、エタンセルの姫神子(ディーユ)。それは東西の人間誰もが知ることである。
「ちっ……、どういうことだよ」
 舌打ちして、男は手を振り続ける少女の元へと歩いた。

 東側から西へと向かうには、その境となる瘴気の森を抜け、渓谷を越えねばならない。もちろん魔物がわんさと出るので、安全な暮らしを求めて西へと向かい、それが叶わず命を落とす者は後を絶たない。クラフトキングダム程ではないにしろ、東西間の人の行き来もほとんど無いに等しかった。
「――はあッ!」
 裂帛の気合が、魔物の咆哮を裂く。それと同時に男の持つ大剣が魔獣の首を落とした。
 大きく肩で息をつきながらも、男はまだ構えを解かない。落とした首がびちびちと跳ね、首を失ってなお、魔獣は太い前足を持ちあげて爪を掲げる。

『我、アリーシア・クラフトキングダムの名において、盟約の元、力を行使する。悪しき呪縛の鎖を断ち、その身生まれし大地へと還れ』

 その前足を斬り飛ばす頃には、白い光がアリーシアから迸り、魔獣の体を縛り付けていた。

浄化の光よ、彼の者を解き放て(ピュリフィケイション)!』

 かっとひときわ光が輝きを増し、視界を奪う。だがその光が収まると、もう魔獣の姿は消え失せていた。
 さきほどから、この要領で魔物を撃退していた。男が戦う間にアリーシアが呪文を呟き、止めを差す。剣士と魔法士のコンビならば基本の連携だが、特筆すべきは、一撃で魔物を滅してしまうアリーシアの力の強さだろう。
 それに、下手をすれば巻き込まれてしまう通常の魔法に対し、アリーシアの魔法は人間にはなんの影響も及ぼさないのだ。よって呪文詠唱のタイミングをはかって避ける必要もなく、目の前の魔物だけに集中できる。
「お前、そんだけの力があるなら護衛なんて要らなかったんじゃないのか?」
 剣を肩に担ぎながら男が言うと、アリーシアは小さく頬を膨らませた。
「アリーシアです」
「慣れ合いは嫌いだ」
「他に我儘はもう言いませんから、名前で呼んでくれませんか?」
 いつになく真剣な声に、男は溜め息を吐きながらがしがしと頭を掻いた。
「……わかったよ。アリー」
「アリーシアです」
「長い」
「長くないです」
 頬を膨らませたまま、近くまできたアリーシアに不満気に見上げられ、男はうんざりしたように目を逸らした。ややあって小さな嘆息が聞こえ、視線を戻すともうアリーシアは笑顔に戻っていた。
「お兄さんの名前、まだ聞いていませんでした」
「他に我儘は言わないんじゃないのか」
「名前を聞きたいのって、我儘ですか?」
 笑顔がまた消えて、大きな瞳が悲しそうに陰る。くるくると表情を動かすアリーシアは、それだけで男にとって面倒くさいと思える存在だった。結局面倒になって、男は答を吐きだした。
「ヴァイトだ。ヴァイト・ベルヘラート」
「ありがとう! ヴァイ」
「……ヴァイトだ」
「長くて覚えられませーん」
 くるりと回ってアリーシアがステップを踏みながら、森の奥へと進んで行く。
「おい、勝手に行くな! ……くそ、まるっきり小さな子供じゃないか」
 ぶつぶつ呟きながらも放っておけず、ヴァイトはしぶしぶとアリーシアの後を追った。



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