深い霧の立ち込める朝。
ひとつ向こうの通りさえ白く濁る風景に男は閉口していた。ぐるりと町を囲む古びた塀に寄りかかり、途切れることないため息は霧の中に消えていく。
彼の他に人の姿はない。まだ朝早いとはいえ、今日この町を出立する旅人はそろそろ活動し出して良い頃だ。
なのに、門の近くで待ってみても、現れる者は誰もいない。
男の目的は旅人の護衛で路銀を得ることだったから、この状況は当てが外れたのもいいところだった。
「ま、こんな霧の日に出立する馬鹿はいないだろうな……」
詮無い独り言を口にして、寄りかかっていた塀から背を離す。そして、尽きかけている路銀でどうやって今日を凌ぐか考えるため、財布を探り始めたときだった。
「おはようございますー」
間延びした声に思考を裂かれ、濃い霧の向こうに目を凝らしていると、むっとしたような声は下の方で聞こえた。
「それ、わざとです?」
「あ……いや、霧で見えないのかと思った」
弁解しながら、男は視線を下げた。そしてまた嘆息する。
客かと思ったのだが、違うようだ。
声の主は――声を聞いた時点で知れていたことだが――女だった。いや、少女と表現した方が正しい。霧にも阻まれないほど近くまで来た彼女を見て、男はそう思い直した。子供と言っても差し支えない。だが客ではないと判断したのは、少女が幼かったからではない。
白い服に、白いマントに、白い帽子。帽子からはみ出した髪の色は透き通るような翡翠の色で、歩く度にさらさら揺れる。
どう見ても旅人ではなかった。こんな朝早い霧の日に、およそ旅向きとも思えず、そして旅をしてきたとも思えない抜けるような白を着ている少女が、他の何であっても旅人でだけはない筈だった。
「……何か用か?」
「お兄さん、強いです?」
少女は腰の剣に視線を当てながら、問いを無視して問いかけてくる。
「まあ……どうだろうな。護衛で生計を立てるくらいには」
少女の強引なペースに辟易しつつも男がそう答えると、少女はぱっと顔を輝かせた。
「本当!? じゃあ、私を護衛して下さいな!」
旅人でない筈の少女からは出る筈がなかった言葉を聞いて、男は二度深呼吸をした。
「……なんだって?」
「私を護衛して下さいな」
今しがた聞いた言葉と一字一句違わず、少女がそう反芻する。
「一応聞くが、出立はいつだ?」
「今からじゃ駄目です?」
「……こんな霧の中を?」
「楽しそうじゃないですかー」
軽く答えて、少女がくるりとダンスでも踊るようにターンする。
阿呆か。
それを見て、男は心の中でそんな言葉を吐いていた。
気が乗らない。
霧の中での戦いに自信がないわけではない。それに、今は何より路銀が欲しいのも事実だ。だが、この少女の護衛は気が進まない。
態度が横柄だの口が悪いだのは金のためと割り切れるし慣れているが、風変わりな子供との旅は男にとって経験がない。だが経験してなくても、魔物と戦うより疲れるだろうということは想像に難くない。
「というわけで私をエタンセルまで連れていって下さい。お願いします」
「断る」
にべもなく答えると、男は少女にくるりと背を向けた。
今この瞬間、気が乗らないからやりたくないへと変わったのだった。
「どうして?」
「お前めんどくさそうだから」
背中にかかる声に、男は真実とは少しだけ違う言葉を返した。決して嘘ではないが、それが直接の理由ではない。
「どこがです? 何か気に障ったなら謝ります」
「別に謝る必要はないさ。これから関わることもないからな」
「……なんですか、それ」
ふと、少女の声のトーンが変わる。
しまった、と男が思った頃には、少女は目の前に周りこんでいた。
「納得できないです」
「……別に納得していらない。ただどの道俺は引き受ける気がないんだから、これ以上話したって仕方ないと思うが」
「ちゃんと話したら気が変わるかもしれないじゃないですか? どうして決めつけて考えるんです?」
尚も言い募る少女を見て、男は舌打ちを辛うじて思いとどまると、少女を追いこして再び歩き出した。だが少女も諦めない。
「そういうの、良くないと思います。ちゃんと話をして下さい!」
絡みついてくるような声に、ついに男の我慢は限界を越した。
「じゃあ言うが、そういうところが面倒だ。だいたい、話し合おうなんて言うやつほど人の話を聞く気がない。俺は話をしたくないと言っている。それを無視して話かけてくるやつと、どんだけ話しても解りあえると思えんな」
振り向きざま、ひと息にそう言い放つ。少女が気圧されたように目を見開くのを見て、男が言い過ぎたと後悔するのはすぐだった。だが、詮無い言い合いを続けるよりは一瞬で済む方がまだマシだと、喉元まで出た謝罪を飲み込む。中途半端は一番厄介だ。
「……わかりました。ごめんなさい」
だが、飲み込んだ言葉が向こうから来るとは思わなかった。
背中にかかった声に振り向くが、白い少女はもう霧の向こうに消えていた。