外伝2 蒼天に契る 11


 やっぱり無謀だった――と、ミルディンが深く自覚したのは、既に危機的状況に陥ってからだった。いくつか出口を見つけることはできたが、いずれも鉄柵が降りて封鎖されている。兵はまだ別棟に集中しているようだったが、一兵卒などよりも厄介そうな相手に見つかってしまっていた。
「まだお帰しする訳にはいかないのです」
 無感慨な声で、そう告げる声には聞き覚えがある。
 月明かりに一瞬照らされた顔は、これといって特徴のない顔。間違いない、自分を攫ってここまで連れてきた者だ。
 黒装束を纏った彼は、夜目の効くミルディンでも月が隠れてしまえば闇に溶けてしまって容易にはとらえられない。
 だけどさっきの月明かりで、彼が剣を抜くのが確かに見えた――光を弾かない、黒塗りの剣。
 一歩後退さると、城壁が背中に触れる。先刻降り立った中庭まで追い詰められ、とうとう逃げ場はなくなっていた。
「大人しくしていて下さいと言ってもどうやら貴女には無理のようだ。恐怖が足りないですか?」
 嘯きと共に、突然首元に気配を感じる。首を締められる、と反射的に悟って、渾身の力で振り払った。
 「わたくしは軍事国の女王。いついかなるときでも、その誇りが恐怖などに埋れることなどありはしません」
 闇に生きている青年には、闇の中でセルリアンブルーの瞳が危険に細まるのがよく見えた。そして、如何なる脅しも威嚇もこの少女に通じないことを知る。
「……貴女は飾りなどでない。正しく王だ。残念です。……貴女を殺さなくてはならない」
 死を告げても尚、彼女の瞳は翳ることなく、胸中で青年は賛辞と弔辞を同時に述べた。
 だがその頃少女は自嘲していた。
 そこに絶対の死が見えても、自分が絶望しないのはきっと女王としてでの誇りではなく。
 
 そんなものではなく――

 今も尚、どんなときでも、信じ続けているものがあるから――

 だからその刃も、彼女にとどくことはなく。

 彼女と彼の間に、ひとつの光が割って入る。
「――!!」
 完全に闇に紛れている自分の剣を跳ね上げられて、青年の顔に僅か動揺が浮かんだ。

「アル! 何してるんだ!!」
 城壁の上から、苛立たしげな少女の声が落ちてくる。
「俺はいい!! 早く行け!」
 突如として闖入してきた気配の主が鋭く叫ぶと、城壁から2つの影が去った。
(――鼠がいたか! 女王に気をとられすぎていた)
 失態に舌打ちする。だが、ミルディンさえ確保すればあとのことはどうにでもなることだ。
 しかし、それすら困難なことを悟る。
 青年に、今まで殺り逃した者はいない。だが、その自分の剣を、今目の前にいる人物は難なく受け止めている。

 ――強い。
 最初に彼を視界に止めたときから気付いていた。
 この城の警備が杜撰なのは、彼の存在があるからだと。
 気配まで闇に溶かしたような彼にどうにか気付いたのは、だが僅か感じた殺気の為。その剣の先にもうひとつの気配を感じたとき、今まさに飛び下りようとしていた城壁を、降りようとしていた方向とは逆の中庭側に飛び下りていた。
 誰かを殺すつもりだ。
 それがわかったとき、無意識に動いてしまっていた。状況はわからない。殺される側が何者かもわからない。だけど、そうしなくてはいけないと、何かが彼を突き動かしていた。
 だが、今までの兵とは違い短時間で決着をつけるのは無理そうだ――
 それに助けた誰かを庇いながら戦うことも困難だった。
 時間がない。兵が集まってくれば立場は不利になるし、リア達にも迷惑がかかるかもしれない。
 アルフェスは剣を一閃させて牽制すると一旦後退して間合いを取り、その刹那の合間に印を切った。  

『貴き神の御使いよ! 我が身に寄りて、光鱗の翼と成せ!!』
 
 闇を塗り替える光の洪水に、闇に生きる青年は瞬間視界を奪われ、その一瞬の虚をついてアルフェスは傍の小さな気配を抱えて跳んだ。
 再び闇が訪れる頃には、青年の前には闇しかないだろう――
 詠んだスペルは飛翔呪(ウイングスペル)の一種だが、既に滅びたスペルであるそれが効果を無くすのは早い。城壁を越えた辺りで急速に落下するが、そこまで保てば充分で、人一人を抱えていても難なく着地することができる。
 待っていてくれたらしいリアはぎょっとしたようにこちらを見てきた。失われた魔法で城壁を越えたことなど解るはずもないから無理のないことではあるが、今は説明している暇もない。  同様に、既に合流していたらしいフィセアも仰天したようにこっちを見ていたが、アルフェスはむしろ彼女が連れているものに驚いていた。
「馬?」
 馬が2頭並んでおり、夫人は既にその背に乗せられている。現在ではごく稀少な生き物であるそれに、だが我に返ったらしいリアは身軽に飛び乗り、
「急いで離れよう! 騎士なら乗れるよな!?」
 そんな言葉だけを残してリアと彼女の母を乗せた馬は素晴らしいスピードで走り出す。
「……無茶言うよ、騎士が馬に乗って戦をしてたのなんて何年前だと思ってるんだ」
 だが言葉とは裏腹に、躊躇い無くアルフェスもまた馬にまたがる。確かに馬が戦に使われたのは一昔前だが、古くからの騎士の家系に生まれたアルフェスには乗馬の指導を受けた経験があった。
 今時乗馬などなんの意味があるのかと、反抗心満々で受けた乗馬指南だったが、なかなかどうして、思わぬところで役立つものだ。
 そんな回想をしていると、続いてまたがったフィセアが不満の声を上げる。
「アル様、この人も連れてくの?」
 気味の悪そうな声のフィセアに、馬上から助けた人物を見下ろす。抱えたときの重さと体型から見るに、女性のようだ――アルフェスは呆然としているその人物に手を差し出した。
 だが恐怖の為なのか、彼の手を掴もうとするその手は、躊躇し、震えている。
「早く!」
 鋭く叫ぶと弾かれたように彼女は手を伸ばした。素早くその手を掴んで引き上げると、丁度その瞬間雲の隙間から月明かりが差して、ショールから零れたフェアブロンドが輝く。
「――――!」
 呼吸が止まりそうになる。
 体が奮えた。彼女が震えていたのも、きっと恐怖の所為などではないことを知る。
「アル様! どうしたの? 早く!」
 フィセアの声に、反射的に馬の腹を蹴ったが、心はもうそこにはなかった。
 月は優しい光を煌々と放ち、走るその背で振り向いたセルリアンブルーの瞳がその光を弾いた。
 
「アルフェ……なの?」

 馬が地を蹴る音に掻き消されそうな程小さな呟きが確かに聞こえる。その声もその呼び名を呼ぶ人も、とてもよく知っていて――

「姫……どうして……」

 言葉がつまる。

 直に月はまた雲に入り、夜明けにはまだ少し遠い闇が言葉も心も全て隠してしまうように、それから2人が馬上で会話を交わすことはなかった。