外伝1 宵に出会う


 闇が夕暮れを塗りつぶす。
 そろそろどの家にも明かりが灯り、家路を辿る人々があちらこちらに見受けられたが、それもしばしのうちに消える。何ということはない、或る街の1日の終わり。 静まり返った通りを窓から見下ろし、彼は溜め息をついた。別にそんな日常の風景に風情を覚えるような感性など持ち合わせてはいないが、この殺風景な部屋に、他に見るところなどない――
 簡素なベッドと小さな窓がひとつ。
 安宿の、それも一番安い部屋だ、文句を言うつもりなどないし、むしろそれが自分には合っている。
 だが静寂はいただけない――
 静かだと、自然物思いに耽ってしまう。考え込むと、もともとろくな思い出がないのだからろくなことを考えない。
 何でもいい。何も考えずに済むような喧騒に埋もれたい。そうすると、彼は無意識にくたびれたジャケットを羽織り、この安宿の地下にある酒場へ向かってしまうのだった。

 大陸歴3020年。
 10年以上も前に始まった戦の火は、今なお大陸、いや世界全土に及んでいる。
 動乱の時代――やるせなく、虚しい、そんな時代の訪れは、人に道楽を求めさせてしまうものなのか――
 とにかく、酒場や賭博上などという類の店の、連日混みあうことといったらない。その凄まじい喧騒が人々には心地良いのだ。
 酒場の戸を押し開けて、彼は浅く息をつくと、いつもの隅の席に陣取った。忙しく徘徊するウエイトレスを適当に捕まえて、適当に酒を頼む。
「あんた、最近よく見る顔だね。若いのに早から酒びたりかい」
 酒を運んできた若い女が苦笑する。
「……放っとけよ」
 さして表情を動かさず、彼は吐き捨てた。一方女の方も、そんな彼の淡々とした様子に動じる気配もない。慣れっこなのだろう――肩をすくめながらさっさと仕事に戻ってゆく。
 そう、『彼』は少年だった。
 歳の頃は16、7くらいだろうか。未成年であろうことは明らかだったが、誰も気にする様子はない。今のご時世、彼でなくともそのぐらいの年代層の客は珍しくもなんともないのだ。
 そんな酒場の雰囲気は彼にとっても居心地がよかったので、今夜も喧騒に埋もれて、1人で酒をあおっていた。
 いつまでこの街に滞在するかはわからない。用件が済み次第出てゆくつもりではあったがが、滞在中は毎晩ここで呑もうと彼は考えていた。今夜も、そんな日常の1コマにすぎなかったのだ。

 喧騒が、途絶えるまでは。

 ――その現象に、彼は飲んでいた酒をテーブルに置いた。
 夜の酒場に、静寂が訪れる。
 そんな光景を彼は初めて目にした。それにある種の感動を覚えながら、何がそんな現象を引き起こしたのか、少々興味をひかれて、身を乗り出す。
 理由はすぐに知れた。今しがた入ってきた客の所為だ。
 その人物は、酒場の異様な空気に戸惑いながら真っ直ぐカウンターに座った。それが自分の所為だとは微塵も気付いていない様子だ。だが、酒場中の客の視線を釘付けにしたのは、まさにその者の美貌であった。
 神秘的なジェードグリーン・アイ。透けるように白い肌。そして肩まで伸ばした亜麻色の髪は絹の様に滑らかで、例えるなら天使とでもいうのか――とにかく絶世の美女と言って差し支えなかった。
 惜しむらくは、美しい瞳の片方が窺えないことである。彼女は隻眼だった。だが、そんなことはさして問題でないようにも思われる。
 喧騒は、歓声となって戻ってきた。そしてそれも何ら不思議のないこと。彼女は深夜の酔っ払い達を色めき立たせる格好の的となるだろう――
 彼女の美しさに一瞬惹かれたことは否定しない。だが、他の連中の様に、下卑た笑いを浮かべながら彼女に近寄ろうなどと言う気は、少年にはこれっぽっちもなかったのである。
 そんな風に冷めていたのは、だが、彼だけではなかった。
 相次ぐ誘いの言葉はまるで雲の上で響いている――そんな顔で、彼女も酒を煽っている。ちなみに彼女も年の頃は彼とそう変わらないか、さもなくば年下だ。
「連れねェなァ……」
 いくら声をかけてもまるで応えない彼女に、男達は諦めの声を漏らし始めた。だが、それでもダメ押しは忘れない。
「俺に付き合ってくれりゃあ、古代秘宝だってくれてやるのによ」
 ひとりの男がそんな声をあげる。男にとっては全く意外に――、その時、その天使は初めて男達の方を振り向いた。
 同時に少年の表情が一変したが、そんなことに気付く者はいない。
「それ、ぼくに言ってるの?」
 天使から、美しい声が紡がれる。
 容姿からすると少し低めのそれは、だが、万人を魅了するには事足りた。問われた男が一心不乱に肯き返す。
「ああ、もちろん!!!」

 ガタン!
 
 喜び勇む男の声は、椅子を蹴る音に掻き消される。
「テメェみてぇな下衆が古代秘宝なんかもってるわけねぇだろーが」
 酔いも手伝って、完全にケンカ口調で少年は吐き捨てた。
「大体、ナンパの引き合いに出すほど安いもんじゃねぇんだよ!」
「んだと、このガキ! ケンカ売ってんのか?」
 叫んだ彼に、顔を引きつらせて男が近づく。が、彼は動じない。
「はん、月並みな台詞だな。次の行動までまるわかりだぜ。三流悪党」
 男が放った拳を苦もなくよけて、挑発するように不敵に笑う。そして、それは美貌の少女にも向けられた。
「あんたもほいほい古代秘宝なんて言葉についていくようじゃロクな女じゃねぇ……」
 言葉半ばにその少女が立ち上がり、彼は唐突に口をつぐんだ。別に彼女が立ち上がったからではない。
 彼女が、手にしていたグラスの中身――無論酒だろうが――を、こちらに向かってぶちまけたからである。
「な……」
 咄嗟に言葉は出なかった。
 冷めたような彼女の深い碧の瞳に、怒りよりも驚きというか、そういうものが先に立った。
 だが、巻き添えを食った男達はそうではなかったらしい。
「てめえッ、このアマ……! 何す……」
 だが、罵声は続かなかった。それどころか、振り上げた手も彼女には届かない。
 そして、その異変は男達だけに起こったものではなかった。
(……! これは、何だ……?)
 動けない。
 ただ、そんな単純なものではなく。br>  動かされる。
 自分の意志とは関係なく、誰かに。br>
 精神が、第三者の手に堕ちる。

「……ッ!!!」
 少女を、僅かに青い光が包み込んでいる、ように見えた。
 彼女がカウンターに酒代を置いて、酒場を出て行く。
 酒場にいた誰もが、既に気を失っているようだ。
「く……このくらいッ」
 何とか支配を断ち切って、彼は立ち上がった。
 心を強く持てばどうということはない。一度立ち上がってしまうとじきに自由は戻った。
 無造作に金をカウンターに置き、「釣りは後で取りにくるからな!」、視線を宙に彷徨わせたまま、ぐったりしているマスターにその声が届いているかは疑問だが、言い残しておくのは忘れない。
 酒に濡れたジャケットを羽織りなおして、彼は少女の後を追った。