Star Festival(キシヒメ番外編:2009年掲載)

 コバルトブルーが黄昏のオレンジに侵食し、少しずつ塗り潰していく。そんな時刻に差し掛かった頃、隣でうたた寝をしていたセラが不意に立ちあがったので、ライゼスは読んでいた本を閉じた。どちらにしろ、そろそろ本の文字も闇の帳に溶け始める頃合いだった。
「お部屋に戻られるのですか、姫」
 そんな訳はないと思いながらついつい零した言葉は、だが心底そんな訳はないと分かっているので、皮肉めいたものを含んでしまう。だが当然セラはそんなことを意にかけたりはしないと、それもまた分かっていることだった。
「そんなわけないだろう」
 実にあっさり彼女は答えてくれる。分かっていたことだからといって笑ってすませられるかというと生憎そんな都合のいい性格をライゼスはしていないので、苛立ちが募っていく。そうやって胃痛に発展するのは日常茶飯事といえばそれまでだ。 「じゃー、何処行くの?」
 その日常茶飯事とライゼスのことは完全に無視して、素朴な疑問を口にしたのはティルだった。
「屋上」
 上を指差しながら、簡潔にセラが答える。だが簡潔すぎるその答えに、再びティルは疑問を返す。
「なんで?」
「そろそろ星が出るから」
 だがそれでもすぐには納得いかず、ライゼスもティルも怪訝な顔をした。セラに天体観測の趣味があるなど、付き合いの長いライゼスでも聞いたことがない。だがスタスタと歩き去る――恐らくは述べたとおり屋上に向かう――セラを反射的に追いながら、ふとライゼスは気がついた。
「ああ。今の時期、星が綺麗に見えるからですか?」
 セラは答えなかったが、振り返ると笑った。
 屋上に辿り着いて空を見上げると、丁度一番星が瞬き始めたころで、それがやがて星の海になっていくのは直ぐだろう。
「――なんだったかな、ほら、昔母上が何か言ってただろう? なんとかっていう行事」
「?」
 いきなりそんな話を振られ、またもライゼスが怪訝な顔をする。それを見て、セラは遠い記憶を必死に手繰り寄せた。
「ほら、なんか植物に紙を吊るして願い事だかなんだかっていうの」
「植物? 紙?」
 セラが何を言っているのか解らず、ライゼスがますます混乱する。セラはセラで、なかなか彼が分かってくれないことへの苛立ちを募らせるが、それにティルが助け舟を出す。
「もしかして、七夕のこと?」
「タナバタ?」
 おうむ返しに言うセラの口調からすると、聞いたことのない言葉だったらしい。当たりの自信があったティルは期待外れのセラのリアクションに、あれ、と所在なく頬にかかる銀髪を弄った。
「植物って、笹じゃないの? 短冊に願い事を書くんだったら七夕かと思ったんだけど」
 そこでようやく、セラとライゼスが揃って合点がいったように声をあげて何度も頷く。
「それだ!」
「それですか」
 二人の反応に、今度はティルが驚いて髪から手を離した。訳が解らないといった顔をするティルに、セラが補足する。
「異国の行事でそういうのがあるって、昔母上が教えてくれたんだ。それで、そのタンザクっていうのに私も願い事を書いた。星を見てそれを思い出したんだけど……ティルも家族から聞いたのか?」
「……ファラステルとか、ラティンステル東部では珍しい風習じゃないよ。強いていえば、俺は夜会でどこぞの姫君に聞いたかな」
 寂しげな碧眼を見て、セラは失言を悟った。そんな穏やかな会話を交わす家族も過去も、ティルは持っていないことを思い出す。良い繕おうと慌てるセラが何かを言う前に、だがティルはいつも通りの表情を戻していた。
「で、セラちゃんはなんて書いたの。願い事」
「父上のような騎士になりたい――でしたよね」
 少し慌てたように言葉を挟んだライゼスを、セラが振り返り、ティルが睨んだ。
「お前に聞いてねーよ」
「それはすみませんでした」
 棒読みの会話を交わす二人に聞こえるように溜め息をつきながら、セラはようやく記憶の全てを手繰り寄せることができた。
「それだけじゃない。そのあと、もう一枚書いた」
 声を上げたセラに、一触即発の状態で身構えていたライゼスとティルが、とりあえずは構えを解く。ただティルはセラの言葉を待つために、ライゼスはセラの言葉を止めるためにという違いがあったが、待つ必要もなく止めることもできずセラの言葉は続く。
「ラスとずっと一緒にいられるようにって」
 にっこりと笑うセラに、ライゼスは若干顔を熱くしつつも、それ以上に倍増した隣の殺気に頭を痛めた。
 どこまでも無垢なセラの笑顔は、だからこそタチが悪いと思う。でも結局、昔からこの笑顔には逆らえない。しかし他意はないということを、隣の人物は理解してくれそうもないからライゼスが再び身構える――が。
「だから今年は、ティルとも一緒にいられるよう、またお願いしないといけないな」
 同じ笑顔でセラがそう言う。
(ほら、タチが悪い――)
 胸の中でだけ、再びライゼスは唸った。とりあえず隣の殺気は消えた。一瞬後にはそのセラの台詞に舞いあがって、いただけない行動に走るのだろう。だがその一瞬前である今なんとも言えない表情をした彼もきっと、セラのタチの悪さに気付いている筈だ。
 だけどそれでも、セラの笑顔には誰も勝てない。
 ライゼスは短く息を吐くと、そろそろ暴走し出すであろうティルを止めるためのスペルを詠み始めたのだった。