15.汝、愛によって救われんことを

 リューンの死を、里の誰もが自分に訪れた不幸のように悼み哀しみ、涙した。
 質素な祭壇の前に安置された彼の亡骸は、綺麗に清められてまるで今にも動き出しそうで――だからラルフィリエルは傍を離れられなかったのかと妙な合点をしながら、エスティはただ立ちすくんでいた。
 だがどれだけ待ってもその美しい碧の瞳が開くことはなかったし、その唇が声を紡ぐこともない。もう二度と――それは、解っているから。少なくとも、解っているつもりだったから。
「そろそろ、行くよ――リューン」
 だから、エスティは呟いた。
 ラティンステル大陸では、ラルフィリエルを絶対神とするセルティ教が一般的だ。リューンの亡骸もきっと、それに沿って葬られるだろう。セルティ教では、3度の朝を女神の元で迎えて祝福を受け、宵に土葬する。
 リューンが信仰している宗教などあったのかどうかも知らないし、エスティも宗教に興味はなかったが、里の人がリューンの死を悼み、供養しようとしてくれていることには素直に感謝できた。
 だが、リューンの姿が土に埋もれてゆくのを見るのは、耐えられそうになかった。
 見ればそれが永遠の別れだとはっきりと感じてしまうから、だから信じたくなかった。認めたくなかった。
 ずっとリューンの傍を離れなかったラルフィリエルが、今度は部屋に閉じこもって誰にも会おうとしないのも、もしかしたら似たような気持ちなのかもしれない。一向に目を開けないリューンに、その死を認めざるを得なくなったから――
 彼女にかけるべき言葉も、エスティには解らなかった。せめてリューンが兄なのだということを教えてやれればいいのだが、リューンがそれをせずに逝ってしまったので、それもまたできなかった。そもそも自分の気持ちを整理することもできないのに、人をどうにかすることなど出来る筈もない。
 俯きながら教会を出ようとし、だが人の気配を感じてエスティは顔を上げた。この里の老神父が、丁度祈りを捧げようと扉を押したのだった。
「行きなさるのかの」
 穏やかな声で語りかける神父に、エスティが頷きを返す。
「ああ……。やらなければいけないことが、あるから」
 その横を通り過ぎて、閉まりかけた扉を片手で止める。その隙間に体を滑り込ませかけ、だがふとエスティは動きを止めた。そして、首だけで振り返る。
「なあ。なんであんたたちは、よそ者のオレ達にこんなによくしてくれるんだ……? 普通こういった隠れ里はよそ者を嫌うだろう」
 祭壇に向かっていた神父もまた、こちらを振り返った。白い髭に埋もれた肌の皺が深まり、微笑んだのだとわかる。
「我々は、戦であまりに多くのものを失いすぎた。失ったからこそ、何が大事なものかをよく知っておるのじゃ。だから――疑心暗鬼に陥って生き延びるよりは、人を信じて死にたい。この里の者は皆そうじゃよ」
 神父の言葉に、少し考え込むようにエスティは真紅の瞳を細めたが、すぐにふっと息を吐くと僅かに笑みを浮かべた。だが一瞬のことで、すぐに踵を返してひらひらと手を振る。
 彼が残した小さな小さな言葉は、だが神父の老いた耳にもはっきり届いて、彼はまた一層その皺を深くした。


 エスティが出て行ってからも、神父は祈りを捧げ続けていた。だが、気配を感じてふと目を開く。振り向くと、真紅のマントをローブのようにして頭から被った小柄な少女の姿がそこにあった。その姿に、神父は見覚えがあった。今この祭壇に安置されている少年の亡骸から、ずっと離れなかった者だ。彼女はそのときも、ずっと顔を隠したままだった。
「お前様は、何か顔を見られたくない理由でもおありかな?」
 少女は答えなかったが、気にせず穏やかな声で神父は続けた。
「自分を隠すのはやめなされ。神の前では全て人の子よ」
「神がいると言うのなら――」
 紡がれた声が彼女のものであるということに神父が気付くまで、少々時間がかかる。だがその時間を差し引いても余るほどに、彼女はなかなか二の句を継いではこなかった。だが急かすでもなく諦めるでもなく、神父はただ続きを待つ。
「神は私を救ってくれるか……?」
 しばしの沈黙の後に聞こえた言葉には悲痛が見えた。それでもやはり、神父は表情を動かさなかった。
「お前様を救えるのはお前様だけじゃ。いくら救いの手が差し伸べられようとも、お前様がそれを救いだと感じなければ、救われたことにはならんじゃろう?」
 ただ穏やかに、慈愛をその目に讃えながら神父が口にしたのは、優しさと厳しさが色を交えた言葉。彼はゆっくりと立ち上がるとその場を立ち去るべくしてこちらへと向かってくる。
「女神ラルフィリエルは仰った。“愛せよ”と。願わくは汝、愛によって救われんことを」
 通り過ぎたその瞬間に、祈りの言葉だけを口にして、彼はそっと教会を出た。
「……愛を説く女神の持ちながら、私は愛など知らない」
 神父が行ってしまったのを見届けて、ラルフィリエルは真紅のローブを取り払った。露わになった長いシルバーブロンドを片手で束ね、もう片方の手で剣を引き抜く。
「だけど、貴方が私を愛してくれていたというなら――こんな私でも、愛を知っていると、言えるのかもしれない」
 刃を束ねた髪にあてがい、そして一気に切り落とすと、銀の輝きが零れた。手にしたそれを、そっと彼の上に乗せる。
 彼が何者なのか、自分にとっての何なのか――ラルフィリエルは薄々気付いていた。その、自分と良く似た面影で。

「私は、行きます。でも、全部終わったら――」

 彼に向けた言葉を一度切る。
 口の中だけで呟いてみたその言葉は鳥肌が立つほどよく馴染んで、ラルフィリエルは微笑んだ。

「――今度こそ、私を迎えに来てね。リューンお兄ちゃん」