13.笑顔と現実

 か細い、しかし女神の歌声のように美しい声が、自分を呼ぶ。ここ数年、ずっと耳に残って離れない声だ。
 背中の真ん中辺りまで伸ばした髪が、風に揺れている。まるで、そのまま空に溶けてゆきそうに。
 ――お兄ちゃん。
 また、呼びかけ。
 鮮やかな翠色の瞳は、涙に潤んでいる。
 ――待っているから。生きて、私を迎えに来てね。お兄ちゃん――
 微笑み。その言葉だけを残して、彼女の姿は少しずつ風と空に溶けて、消えてゆく。

「待ッ……!!」
 がば、と彼は飛び起きた。外は寒いというのに、全身が汗だくで火照っている。
「……シェオリオ……」
 或る名前を呻く様に口にした。
 外はまだ、暗い。




「リューン? 起きてたのか」
 闇夜に佇む人影を見止めて、エスティは声をかけた。
「うん、何となく目が覚めちゃって。エスは? 眠れないの?」
「まあな」
 城のバルコニー。夜風は冷たいが、苦痛を感じるほどではない。
「あれだけ眠れば、そりゃ眠れないよね」
リューンが茶化したが、エスティは一言「うるせ」と突っぱねただけだった。 塀に寄りかかって、外を見渡す。だがそこにあるのはただ黒い景色のみ。
「王女様のこと、気にしてるんだね」
 表情などほとんど見えない筈なのに、唐突にリューンはそう言って来た。
「別に――」
「ぼくに嘘ついても無駄。ぼくはマインドソーサラーだよ?」
 塀の上に両手をついて、その手に頬を預けながら、リューンはにっこりとこちらを向いた。
 エスティはそんな彼の視線から目を逸らすと、星一つない夜空を見上げる。
「……≪エインシェンティア≫を得る為だ、仕方ない。王女に来てもらうしか方法がないなら」
「でも、何か迷ってるでしょ。……いや、後悔、かな?」
 エスティが溜息をつく。虚勢をはっても意味がないことを悟って、彼は独白するように呟いた。
「……何も、デリート・スペルのことまで話すことはなかったんだ。なのに……」
「あの人たちを信じたから話したんでしょ? 全く人を信用しない君が、初めて人を信用したんだ。いい兆候じゃない」
 目を伏せて、からかうように――だが、どこか優しい声音で、リューンが言う。そんな彼をエスティは半眼で見遣った。
「他人を信用したことないテメェに言われたくねぇよ」
 いつもの調子に戻った彼を見て、リューンは破顔した。だがエスティは再び彼から目を逸らし――だが早口で補足する。
「それに、人を信用したのは初めてじゃない」
 一瞬、リューンは驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。体を反転させ、逆に塀にもたれながら、一言だけ返した。
「……ぼくも、だよ」

 同時刻、ランドエバー城の王女の私室で、ミルディンは満面の笑みを浮かべていた。それを見て、付き従うエレフォもまた自然に顔がほころぶ。
「ご機嫌ですね、姫」
 結い上げた髪をほどいてやり、櫛を通す間も、ミルディンはずっと微笑っていた。
「だって、エレン! 外に出られるんだもの! すっごく久しぶり、すっごく楽しみ!!」
 まるで子どものようにミルディンがはしゃぐ。
 ミルディンの親衛隊長であるエレフォは、同時に王女がもっと幼い頃からの世話係でもあった。故にミルディンにとっては姉同然の存在であり、二人の時には愛称で呼ぶし、強がったり虚勢を張ったりすることもない。ただの女の子に戻れる唯一の場所でもあった。それでも、こんな風に楽しそうにはしゃぐミルディンを見るのは、エレフォも久しぶりではあったが。
「……それに、やっとわたし、役に立てる。わたし、いつだって、エレンやアルフェが――わたしの大切な人たちが、傷つくのを見ているだけだもの」
「姫……」
 自嘲気味に呟く彼女を、彼女もまた似たような表情で見つめた。
 ミルディンが自分の無力を感じる度、エレフォも己の無力を呪った。ミルディンが、護られることを嫌っていること、王女として扱われることを疎っていること、皆と共に戦いたいと願っていることをエレフォは知ってたるが、彼女はこの国の王女であり、その親衛隊たる自分にはそれを叶えることはできない。
 そして同様な無力さを、アルフェスも感じているに相違なかった。多分、自分以上に。
「……でも、本当に久しぶり。アルフェと外出するなんて」
 ふいに、ミルディンがはにかんだ笑みを見せる。だが、エレフォと目が合うと、より鮮やかに花開くような笑みを見せた。
「エレンも一緒だったら、もっとよかったのにな」
 そう言うと、彼女は微笑ったまま、思いを馳せるように目を伏せた。
「いつか、行きたいね。エレンもアルフェも、ヒューやばあやも一緒に……どこか遠いところへ、遊びに行けたら楽しいだろうなぁ」
 そのときを思い描いているのだろう、幸せそうなミルディンの表情に、だがエレフォはずきりと胸が痛んだ。彼女が出した名前は近衛副隊長のヒューバートや、エレフォ以前の世話役であった乳母エルフィーナのことだ。エルフィーナはエレフォの母親でもある。いずれにしろ、戦が始まるまではミルディンにとって身近で親しい存在だった者たちだ。
 ミルディンの気持ちを思うと胸はひりひりと痛んだが、それでもそんなことは億尾にも出さずエレフォもまた穏やかに微笑んだ。
「光栄です。でも、母上や私やヒューは、お邪魔なのでは?」
 からかうような語調に、ミルディンは顔を赤くした。
「もうっ、エレンったら!!」
 腕を振り上げ、彼女を叩く素振りをする。そんな姿はあどけない少女のそれで、エレフォはクスリと笑った。
「……いつか、行きましょうね。この戦争が終わったら」
「うんっ!!!」
 満面の笑みで、ミルディンが微笑む。
 だが、とエレフォは思う。
 例えこの戦争が終わったとしても、父王が他界した今彼女に安息は訪れないだろう――それは、ミルディンにも解っていることの筈だった。
 こうやって交わす会話が気休めに過ぎず、叶わぬことと解っていて、この少女は微笑っているのだ。
(お強い方だ)
 エレフォは心から自分の無力を呪った。