17.エピローグ

 執務室の扉が二度叩かれる。
「はい」
 窓の外には、穏やかなランドエバー城下の街並みが広がる。それを背にして、大きな机と膨大な書類に向かうのは、その広大な王国の主だった。
 しかしそう呼ぶにはいささか若すぎるその顔を上げもせず、彼女は書類をさばく手を休めないままに短く応える。
「女王陛下にお目通りしたいと申す者が見えていますが」
 書類の内容に目を走らせながら、大仰な敬称で呼ばれた少女は柳眉を寄せる。
「困ったわね……今ちょっと手が離せないのよ。明日の謁見では駄目かしら」
「いえ、至急とのことです」
 ふぅ、と息を吐いてようやく彼女は顔をあげた。報告書やら請願書やらの山を簡単にまとめトントン、と軽く机に打ち付けて揃える――日が暮れるまでに、一通り把握しておきたかったのだが致し方ない。
「それで、どんな方かしら?」
 問いかけと同時に、バァンッ、と勢い良く開かれた扉がそれに応えた。そこに姿を現した人物に、少女は青空のようなセルリアンブルーの瞳をいっぱいに見開いた。
「あ・た・し・だよ!! ミラ!!」
 彼女の瞳が青空ならば、元気な声と共に飛び込んできた少女のそれは、さしずめ月明かりの空。
 変わらない笑顔を讃える彼女に、ミラ――ランドエバー王国女王ミルディンは、優雅な容姿に見合わない派手な音で椅子を蹴って立ち上がった。
「シレア!!」
 机を迂回するのももどかしく、駆け寄る。その衝撃に、積み上げられた本が倒れ、今しがた揃えた書類も巻き込んでバサバサと机の上で雪崩が起きる。「ひゃあ」、と飛び込んできた少女は小さく悲鳴を上げたが、そんなことはお構いなしで。
 ミルディンはその少女――シレアに、半ば飛びつくように抱きついた。
 その一方で、扉の向こうで悪戯っぽく笑う騎士に、拗ねたような視線を送る。
「ヒューったら! 最初から言ってくれればよかったのに」
 そんな彼女の様子に、堪えきれずヒューバートが吹き出す。だがミルディンに睨まれると、彼はそそくさと退散していった。
 もう、と苦笑しながら、ミルディンは改めてシレアに向き直った。
「あなた、今までどうしてたの? ちっとも顔見せないんだもの。ルオも随分心配してたのよ?」
「えへへ、ごめん……」
 へらっと笑って頭を掻いたシレアだが、ミルディンの瞳に涙が浮かんでるのを見て言葉を切る。
「――アルフェスがいなくなって。あなたまでいなくなったら、わたし――」
 首に回された手にぎゅっと力がこもって、シレアもまた彼女の体を抱きしめた。元々線の細かったミルディンだが、また一層華奢になった気がした。
「アルフェスさん、まだ戻らないんだ……?」
 呟くとミルディンは手を離し、こちらを見て哀しげに頷いた。
 あの戦場から、アルフェスはついに帰ってはこなかった。スティンの軍勢がルオを筆頭に華々しい凱旋を果たしても、ランドエバーの騎士達が奇跡的にそのほとんどが無事に帰還しても、ついぞ、その守護神は姿を現すことはなかった。
 彼と最後まで行動を共にしていたヒューバートが、瀕死の重傷で戦場から担ぎ込まれたその後、アルフェスの姿を見たものはいないという。ただ、確かなのは――彼がレガシスに打ち勝ったということだけだ。その後、あの漆黒の王子を目にする者も誰もいなかった。
 その為、ランドエバーではレガシスとアルフェスが相討ったのだと囁かれ、風の噂でシレアもそれは耳にした。
 だから、ミルディンの哀しい笑みを見て胸が痛くなる。ほっそりとして小さくなった彼女は、だがあれから二年の時を経て随分美しくなった。だけどそれでも、シレアはあの晴れやかに笑うミルディンの笑顔の方が好きだ。
「ごめんね、ミラ。ずっと、来れなくて」
「ううん、いいの。無事ならいいのよ」
 しゅんとなったシレアに、ミルディンは慌てて目の淵にたまった涙を払った。
「エレンもヒューも無事だったし。あなたもこうして元気な顔を見せてくれたし。だから、わたしなら平気よ」
 それでもシレアの表情は晴れなかった。そんなシレアの様子に逆にいたたまれなくなって、ミルディンは笑顔から憂いを消そうと努めた。
「本当に大丈夫よ。――わたしね、とっても欲張りになったの。民を幸せにするだけじゃなくて、自分も幸せになりたいって思うようになったのよ。わたしも幸せになっていいんだって……きっとラトはそう言ってくれたんだと思うから。だからわたし、アルフェを待つわ。必ず帰るって約束したから、信じたいの。今は信じて待つだけで、わたしは強くなれるし幸せよ」
 あ、とシレアは口の中で小さな呟きを漏らす。
 幸せだ、と言ったときのミルディンのその笑顔は、以前の――シレアが好きな、あの笑顔と同じように見えたから。
 すっかりやつれてしまっても、彼女は決して悲観的にはなっていない。逆に強くなったんだと、解った。
「……あのね、ミラ。あたし、あれから今まで、世界中を見て回ってたんだ。ファラステル、リルステル、そしてラティンステル大陸……滅んでしまった国もあったし、見事に復興していた国もあった。戦火を免れていた国もあった。同じ時代でも、同じ国はひとつもない。それはそこに生きる人も同じでね、長い時間の中で、皆変わっていく。ミラのように強くなったり、でも逆に弱くなってしまったり。時が経つにつれて誰かの事を忘れたり、誰かへの想いを募らせたり。何かを諦めたり……決して諦めなかったり。苦しんだり、悩んだり、笑ったり、でも必ず明日は来るし、時間は常に流れていく。でも、かと思えばどれだけ経っても変わらない想いや絆もある」
 一息に喋って、シレアは不思議な笑みを見せた。いつもの様な無邪気な笑みでも、かといって哀しみや切なさがあるわけでもない。ただ笑っただだけなのに、形容する言葉は何もなくて――
 彼女は遠いところにいる、ここではないところにいる、そんな錯覚を引き起こさせるような微笑みを浮かべながら、シレアは窓の方へと歩いていった。
「これからも長い時間が過ぎて、人は変わったり、変わらなかったりする。だから……だから、ラルフィリエルは人が好きになったんだね。いろんなものをこの目で見てきて、そして心で感じて、あたしわかった気がするの」
 カタン、と錠を上げて、シレアは窓を開け放った。春の匂いが鼻腔をくすぐる。
 そして、シレアは振り返る。
「あたしも人が好きだよ。エスティやラルフィ、リューンお兄ちゃんもアルフェスさんも、おじさんもイリュアさんも、だから戦ってきたんだね」
「ええ……そして、わたしやあなたも」
 微笑む彼女が眩しいのは、きっと窓を背にしているからだけではない。だけど春の柔らかな日差しは優しく彼女を包んでいて、ミルディンは目を細めた。春風になびく長いフェア・ブロンドを押さえて、彼女もまた笑みを浮かべる。

 あれから何年か過ぎ去って、これからも何年も過ぎていって、人はまた過ちを繰り返したりするのかもしれない。だけど、知っている。

 人は戦う限り、平和を知るもの。
 憎む限り、優しくなれるもの。
 裏切る限り、愛せるもの――

 シレアは窓から身を乗り出すと、澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。