7.月明かりの夜想曲
得意げに胸を張る妹を前に、リューンは思わず吹き出した。そんなこちらの様子を見て、彼女が憮然とするのも当然だと思う。だがそれでも笑いが止まらず、リューンはついに腹を押さえた。「なんで笑うのよっ!?」
むくれているのは血の繋がらない妹で、おろおろと成り行きを見ているのはようやく会えた血を分けた妹。
だからあたしたちは姉妹なのよとシレアは笑い、ラルフィリエルを「お姉ちゃん」と躊躇なく呼ぶのだが――
「ごめんごめん。だって……シェラの方がお姉ちゃんなんだ、と思って」
シレアが睨むのでどうにか笑いをひっこめてそう言ったのだが、自分が言いたいことを彼女はまだ解ってくれないようだ。だから、補足する。
「シレア、お前今いくつだ?」
「え? 17歳だけど……え」
ようやく兄が何を言わんとしているかに気付いて、うそ、とシレアは口に手を当てた。
「シェラは15歳だよ」
リューンの言葉にオーバーに青ざめて、シレアはばっとラルフィリエルを振り返った。相変わらず困ったような顔で、ラルフィリエルが詫びてくる。
「あ……済まない、シレア。私、自分の歳を知らなかった」
事実済まなそうな彼女はやはりそれでも完璧な美貌で、落ち着いていて、確かに幼さを残してはいるが、その様は大人びている。
対照的にシレアはただでさえ幼く見られる童顔で、良く笑い良く怒り、感情のままに表情をくるくる変えるのでどうしても子供っぽく見える。
「う、うそうそっ、15歳っ!? じゃあ何!? エスはロリコンになっちゃうの!!?」
妙な錯乱の仕方をするシレアに、リューンは苦笑した。
「4歳違いなんて別におかしくないんじゃない? 確かアルフェスとミラも4歳差でしょ」
「違うわよ! 15歳って響きがなんか犯罪ちっく!?」
最早目をぐるぐるにして叫ぶシレアは、自分が何を言っているかも解っていないだろう。
ラルフィリエルはラルフィリエルで、自分のことを言われているのに全く意味を理解できず、すっかり話から置いて行かれている。
「そもそもさ」
そんな中――笑顔のままリューンが声を上げた。
「エスティにシェラをやるなんて、ぼく一言も言ってないし」
何か危険なオーラを感じ、シレアは錯乱から立ち直った。リューンは笑っているのだが、殺気を感じるのは何故だろう――だがシレアは正気に戻ったのは、それが理由ではなかった。
急に思い立ったかのようにラルフィリエルの後に回り、王城の門の方角へと肩を押す。
「ほらほら、お姉……じゃないのか、ラルフィはエスのところ行かなくちゃ。なんてったって今日は決戦前夜だもんねっ」
「え……え?」
ぐいぐいと押され、その勢いでラルフィリエルが歩き出す。戸惑いっぱなしの彼女に業を煮やしたのか、シレアはんもう、と苛立ちを表すと、
「エスと話したいことがあるんでしょ? お兄ちゃんに捕まったらもう話せなくなっちゃうよ。ホラ早く!」
耳打ちしてやると、ラルフィリエルは一瞬驚いたような顔をし、それからやっぱりまたちょっと困ったような顔をして、そして微笑んだ。
「ありがとう。……お姉ちゃん」
照れたように、だけどそう口にしたラルフィリエルにシレアが満足気に微笑む。
だが、彼女が歩み去ろうとするとまたもはっと思い立ったように、小走りに追いかけて、もう一度シレアは何事かを耳打ちした。
不思議そうに、だが微笑みながらそれを見つめるリューンを、ラルフィリエルが振り返って見つめる。
「……お兄ちゃん」
はにかみながら聞きなれたその単語を言ったのは、ここしばらくは聞きなれない声。だから心臓が跳ね上がる。
脳裏で、ざぁっと緑なす草原の草が揺れた。そこにおちる輝きはオーシャングリーンと煌くフラックス。遠い日の記憶。
「そう呼んでも……いい?」
少し離れたところから小さくラルフィリエルは問う。
だけど誰よりも近く今は彼女を感じられて、何故か涙が出そうになる。それは堪えて、変わりに顔には極上の笑顔で。
「もちろんだよ、シェオリオ」
ラルフィリエルは小さく笑った。
そして今度こそ踵を返す。その向かう先が自分ではない男の場所だと思うと、寂しさは禁じえないのだが――
(やっとこの手に戻ってきたら、もう羽ばたいていくのか)
だけど、そこに悲しみはない。ただ満ち足りた思いがあって、だから笑みは消えていないのだが。
「複雑そうな顔」
近くに戻ってきたシレアに顔を覗き込まれ、悪戯っぽい笑みでそう言われる。そんな彼女にリューンはクスリと笑った。
「だってさ。なんか娘を嫁に出す父親の気分? なんか……悔しいよね」
「何言ってんの。エスだったら、って認めてるくせに」
シレアが呆れたように言う。リューンは一瞬笑いを収めて、そしてまた苦笑する。
「……お前、マインドソーサラーになれるかもね」
頭をくしゃりと撫でてやると、シレアはえへへ、と笑った。
「シェラの様子にも気付いていたんだ」
「そりゃあんだけエスのことチラチラ気にしてるんだもん。あたし、そーゆーことには鋭いよ? 女の勘ってやつ」
撫でられて嬉しそうにシレアがはしゃぐ。そんな彼女にリューンは目を細め、そして手を降ろした。
「――今日はもう、休もうか」
明日だし、そう言って話を途切らせたのだがシレアはそんな言葉など聞こえていないかのように話を繋ぐ。
「だから、知ってるんだよ。お兄ちゃんがあたしの気持ち知っていて、そうやってあたしを避けていることも」
微笑みが凍る。まるでぎゅっと心臓を掴まれたような感覚に、リューンは隻眼を見開いていた。
一瞬視界すら真っ白になった錯覚を覚えたが、どうにか捕らえた彼女の表情は、泣きそうかと思ったのだが爽やかに笑ったままで。
「だけどあたしは、お兄ちゃんがあたしを妹だと思ってくれるならそれで嬉しいから」
かけるべき言葉がわからなくて立ち尽くす。
シレアの笑みは、なんて眩しいのだろうと思う。そうやって笑顔を絶やさないことが決して容易いことではないと解っている。
天真爛漫なようでいて、彼女は誰よりも人の心を敏感に読み取って、その心に泣いては笑う。だから、誰もが彼女に元気を貰う。だから――
(だから、ぼくはずっとシレアに甘えっぱなしだ)
今も覗き込んでくるムーンライトブルーの瞳には自分を気遣う色がある。
「そんな顔しないで?」
思った通りシレアはそんな言葉を告げてきた。マインドソーサラーである自分が見ても、その表情には一片たりとも切なさも哀しみもない。
「だから、笑って。そしていつかあたしが好きな人を連れて来たときに、さっきみたいに怒ってね? お前なんかに妹をやれるかーってね」
おどけてがおーっと怒った顔をしてみせるシレアに思わず吹き出す。
「ぼく、そんな顔してた?」
ふふっと笑うと、僅かにシレアが安堵したのが解った。普通なら気付かない程度の微妙な変化だったけれど。
「ね、外行こうよ、お兄ちゃん。そろそろ星が綺麗に見える頃だよ! きっと屋上からならすごい星空が見えるよ!」
小さな手に掴まれて走り出す。
いつもこの手に救われて、
そして笑顔を忘れないでここまでこれた。
――いつか、あたしが好きな人を連れてきたとき――
走りながら、リューンの表情が僅かに変わる。
その日を思うと、胸を過ぎる寂しさは、だけどほんの少し、シェオリオに感じたそれとは違う気がして――だけど無邪気に自分の手を引く少女に抱くのは、遥かな故郷で微笑む妹へのそれと同じものだから。だから、その手は引き寄せられない。
辿りついた屋上の扉の向こうには、空を埋め尽くすような星。
小さな点にすぎない星が、闇を埋め尽くすように飾るそれは、まるで希望を空に描いたかのようで、月明かりと星明りの中、リューンもシレアもしばし言葉を忘れた。
時が止まったかのようなその静かな空間で、だけどぽつりとシレアは呟く。
「お兄ちゃん、あたしね。もう留守番だけは、嫌だよ」
つないだままの手を、引き寄せることはできなかったけれど、代わりにぎゅっとその手を握り締める。
――うん。一緒に行こう。ぼくは、きっとシレアがいたら戦えるから。
星空に溶けそうな程小さな声は、確かに少女には届いたようで――星も月も霞んでしまうような彼女の笑顔を、少年は強く瞳に焼き付けた。