5.レーゾンデートル
柔らかなベッドから半身のみを起こし、騎士はただじっと己の剣を見ていた。両手で目の高さにまで掲げたそれを鞘からほんの少しだけ引き抜くと、白銀に輝く見事な刀身に己が映る。気を失っている間にラルフィリエルが綺麗に手入れをし、ルオがどこからか鞘を見繕ってきてくれたのだとミルディンが言っていた。
仲間の気遣いに心底感謝しながら、元通り剣を鞘に戻す。
身体を動かすと、節々にまだ鈍い痛みは残り、急激な治癒の反動として激しい疲労はあるものの、戦場に繰り出し剣を振るうには支障ない様に思える。だからこれ以上は悠長に寝ている場合ではない。
彼の心は決まっていた。
ルオに、エルフィーナに、エレフォに忠告された言葉を思い出し、傷が癒えぬ内からずっと考え続けていたから。だが答えは案外簡単なものだった。
このままでは、身を滅ぼす剣を――誰も護れない剣を振るい続けて行くだけ。それは自分の存在理由を覆すにも等しかった。――だから。
ノックの音が部屋に響いたのは、起き上がりかけた丁度そのときだった。
扉の向こうから現れたのは、フェアブロンドに明るい青の瞳が眩しい少女で、彼女はこちらを見ると柳眉を潜めた。
「休んでいなくて大丈夫なのですか?」
心配そうに近寄ってくるミルディンに、アルフェスはそちらに顔を向けると微笑んだ。
「ええ、ご心配をおかけしました。もう大丈夫ですよ」
それなら良いのだけど、とミルディンは椅子を引き、腰を降ろす。
「今、エスティ達と話してたんです。明日、セルティへ発つって」
「そうですか」
スティンやランドエバーを始めとする列強が既に進軍を開始していることはアルフェスも聞いていた。ただでさえ、自分の治療の為足止めを食っていたのだ。これ以上時間を無駄にはできない筈だ。
「……姫。お話があるのですが、聞いて頂けますか?」
真っ直ぐに彼女の青い瞳を見つめてアルフェスが問いかける。穏やかなその視線を受けて不思議そうに頷くミルディンに、騎士は意を決して口を開いた。
「私は、エスティ達と共にガルヴァリエルと戦うことはできません」
きっぱりと言い切った彼に。その思いもかけない言葉に、咄嗟にミルディンは何を言うこともできずに。そのままアルフェスは二の句を継いだ。
「ランドエバー軍は、レガシスの指揮のもと、既にセルティに進軍しています。私は近衛総隊長として、レガシスが国に害なすものならそれを排除し、そして戦場の騎士達と共に戦わねばなりません」
剣を握り締めてそう語る彼の決意が固いことは、表情で知れた。だが、いまや完全にレガシスの手に堕ちてしまったあの場所に戻ることが、どれほど危険で無謀であるかはミルディンでもわかる。一方で、アルフェスがそうしたいという気持ちも痛いほどに解った。エレフォのことを考えるとミルディンもいてもたってもいられなくなる。戻って無事な姿を確認したいという気持ちは常にあったから。
「――だったら。わたしも行くわ。わたしはランドエバーの王女です。わたしにも、国の為に戦う義務があります」
だがこれにもきっぱりとアルフェスは首を横に振った。表情こそ穏やかだが、そこにはいつものように、結局はミルディンの意志を通してくれるような、そんな赦免の雰囲気は一切無かった。言葉に詰まってしまうミルディンに、アルフェスは穏やかな声で、だが予断を許さぬ口調で、彼女を諭した。
「私が行くのは戦場です。それに、レガシスは強い。貴女を護りながら彼に立ち向かえる自信は正直ありません」
暗に足手まといだと言われたことに気付いて、ミルディンは傷付いたような表情をした。彼がその様な言い方をすることなど今までなかったから、それほどまでにレガシスが危険な相手であることは解るのだが。
ミルディンが悲痛な表情になるが、それでもアルフェスは前言を撤回したりはしなかった。紡ぐ声は、あくまでも穏やかなまま。
「側近である私が、姫の傍を離れることは職務放棄になるかもしれません。けれど今戦わなければ、私はもう騎士ではいられなくなると思うのです。私は――ランドエバー近衛総隊長。“ランドエバーの守護神”だから。今まで、私はその二つ名からずっと逃げ続けていました。けれど今逃げたら、私は本当に剣を持てなくなるでしょう。そうしたら――姫を護ることができなくなってしまうから」
ガタン、という音に、アルフェスは言葉を切った。黙って彼の言葉に耳を傾けていたミルディンが、突如乱暴に席を立ったのだった。
「あなたが剣を振るうのに迷いがあるなんて、わたしは気づこうともしなかった。自分の辛さばかりで、あなたの辛さなんて解ろうともしなかった。本当にごめんなさい。だけど、でも――、あなたがそこまでして剣を振るうのがわたしの為だって言うなら、もう戦うことなんかしないで!!」
真っ直ぐにアルフェスを見下ろして、両目からぼろぼろと涙を流しながらミルディンは叫んだ。その言葉は彼を傷つけるかもしれないと、解ってはいたが止められなかった。
「昔から、あなたはそうよ。いつもわたしを護るためって、自分のことも省みないで……あなたのそんなところ、大嫌い!! 職務で傍にいるなら、騎士だからそうするっていうなら、もう騎士なんかやめればいいわ! 傍になんかいなくていい!!」
泣きながら一息に叫んだミルディンは、そのままこちらに背を向ける。だがアルフェスは起き上がると、出て行こうとするミルディンのその手を掴んだ。
「僕は傍にいたい」
背を向けたまま、ミルディンが立ち止まる。それは、別段手を掴まれてしまったからではなく。自分の意思とは関係のないところで、涙が頬を伝って床にこぼれた。
「僕が戦ってきたのは君のためでも国のためでもないんだ。僕が背を向けていたのは剣を振るう重圧じゃなくて、自分の気持ちにだったんだ。姫を護るためと理由をつけて騎士になったことに、ずっと気付かないように生きてきたから、守護神と言われることが重かった。……僕は守護神なんかじゃない。一度だって、この国の為に剣を振るったことなんかないから。きっと、君の為に戦ったこともないんだ。僕が、戦ってきたのは――僕がミラの傍にいたかったから。騎士になることが、その術だったから」
ミルディンは振り返った。その瞳に映ったのは泣き笑いのような表情を浮かべた騎士の顔だった。涙でぼやけた視界に彼を写したまま動けないでいると、掴まれたままの手はそっと引き寄せられた。
それに抗う暇もなく、また理由も見つからないまま――優しく抱き締められる。
「……ずっと君が好きだった」
彼の言葉はずっと遠くの方でしているようだった。
聞ける筈もない言葉と、温かい彼の胸の中はひどく現実味がなく、夢ではないかと思う程。
「傍にいたかった。例え君を傷つけても、守護神と偽っても。だけど、このままじゃ僕は戦えなくなってしまう。今戦わなければもう騎士ではいられなくなる。それは嫌なんだ……これからも君の傍にいたいから」
何か言おうとミルディンは口を開いたが、何も言葉は出てこなかった。ただ涙だけが溢れた。それは悲しいからではないのだと伝えたいのに声が出ない。
「わたし、わたしも……ずっと……」
それでもようやくそれだけ声を振り絞る。抱きしめる彼の手が少し震え、黙ってその先の言葉を待つ。それを感じて、ミルディンは手の甲で涙を拭いた。アルフェスを真っすぐに見上げ、息を整える。
「……あなたがランドエバーに帰ってきたら、言います。だから、……死なないで」
「そんなこと言われたら、心残りで死ねません」
困ったようにアルフェスは微笑んだ。それを見て、ミルディンもまた満足そうに笑う。腕の中で微笑む愛しい少女を、アルフェスはもう一度強く抱き締めた。
「姫――この最後の戦いで、私は姫をお護りすることができません。それだけが気がかりなのです。本当は、貴方に戦って欲しくはありません。でも姫は、行くのでしょう」
彼女の性格は解りすぎるくらい解っていた。
「わたしもあなたと同じです。わたしの力が、必要とされたの。だから、わたしもわたしであるために、これからもランドエバーの王女であるために、戦いたいの。大好きな人達がこれからも幸せに暮らせるように。貴方が命がけで護ってくれるランドエバーに帰る為に」
予想通り、ミルディンは迷うことなく頷きを返してくる。
「どうか――ご無事で」
祈るように呟いて、少女のフェアブロンドを撫でる。
笑顔の彼女の涙に濡れた唇に、騎士はそっと唇を重ねた。