何が起こったのかわからない。
 今まで穏やかだった部屋の中が、さっきレイシェ様とユラハさんが睨みあっていたとき以上に、空気が冷ややかになっていた。
 怖い顔で睨みあうレイシェ様とニナは、二人とも普段が笑顔なだけに別人のように見える。

「……袖の下の物騒なものをお渡し下さい。今は必要ない筈です」
「僕がこれを出そうとして、出す前に気付かれたのは初めてだ」

 すっとレイシェ様が手を振ると、前にヴェイルさんと争ったときのように、その手の中には変わった形のナイフがあった。
 どうして、今そんなものを。
 あたしがそれを問う前に、レイシェ様がそれをニナへと向ける。

「何……してるんですか、レイシェ様。嘘ですよね?」
「もう貴女に嘘はつかないことにしましたから。残念ながら、本気です」
「……やめて!」

 すっとレイシェ様がナイフを構えて、あたしは悲鳴を上げた。
 でも動転しているのはあたしだけで、ニナは黙ってレイシェ様の方を見たまま、冷静な声をあたしに向ける。

「ラナ様、逃げて下さい。陛下のところへ」

 狙いをつけるレイシェ様の手の動きにあわせ、ニナがそのナイフの進路を遮るように、あたしの前に立つ。
 でもあたしは動けなかった。
 ニナを置いて逃げるなんてできないし、したくない。でもそれ以前に足が震えて動かない。
 レイシェ様が小さくため息をついて、ナイフを持った手を動かす。それと同時にニナも動いていた。
 テーブルに置いてあったトレイにばっと手を伸ばして、迷わずそれをレイシェ様めがけて投げつける。トレイは真っ直ぐにレイシェ様のナイフを持つ手に命中する。けれど、その頃にはレイシェ様の逆の手にもナイフがあった。そして、それをレイシェ様がニナに向けて放つ。
 悲鳴を上げようとしたけれど声が掠れて声にならない。
 けれどニナは冷静だった。今度はシーツを掴んで、勢い良く目の前に広げてナイフを遮りながら、こちらを振り向いてニナがまた叫ぶ。
「ラナ様、早く――」
「手近なものを投げ、相手の視界を奪う。咄嗟の防御手段としては適切ですが、僕をスラムのごろつきと同列に見てもらっては困ります」

 でもその声は途中で消えた。
 シーツが切り裂かれて、その向こうから現れたレイシェ様がニナの腕をつかみ、ニナが反応できないでいるうちに、レイシェ様がニナの首筋を素手で打つ。

 短い悲鳴を上げてニナが床に倒れ、それを見てあたしの腰がへなりと抜けた。
 駄目だ。動けない。
 でも大声を出せば、誰か気付いてくれるかもしれない。
 そう思って大きく息を吸い込むが、それを見越したようにレイシェ様が人差し指を口に当てた。

「しー。いい子だから静かにして下さい。僕も手荒なことがしたいわけじゃない。貴女に来てもらいたいだけなんですよ、ラナ。言うことを聞いてくれれば、これ以上侍女に手は出しません」

 そんな言葉に、あたしは吸いこんだ息を飲み込む。
 ……でも、レイシェ様は平気で嘘をつける人だ。レオンが呼んでいるってユラハさんをあたしから離したのだって、絶対嘘だろう。
 あたしだって嘘をついたことがないわけじゃないけど、でも嘘をつくときにはどこかで罪悪感があって、表情や仕草に出てしまう。兄弟達が嘘をつくときだってそうだった。だけど、レイシェ様は、本当に自然に嘘をつくんだ。全く悪気のない穏やかな笑顔のままで。
 だから、今だって信じられない。あたしが言うことを聞いても、レイシェ様がニナに酷いことをしない保証はない。

 だったら、助けを呼ぶべきなんじゃないだろうか。

 そんな風に考えていると、レイシェ様は困ったように笑いながら、ニナから離れるように後ずさった。そして、両手を無造作に降る。その袖から、ナイフが数本、カシャンと床の上に落ちた。

「どうも貴女の信用を失ったようなので、先に僕が約束を遂行します。これで僕は貴女とその侍女を傷つけることができなくなりました。これが僕なりの誠意です。……一緒に来てくれますね?」

 今、助けを呼べば、きっとあたしもニナも助かる。
 でもあたしは声を上げられずにいた。
 あたしとニナは助かっても、レイシェ様は捕まってしまうだろう。
 レイシェ様の方が優位な立場にいたのに、あたしが言うことを聞くと信じて、武器を手放したせいで。

 ……全部、分かっててやっているんだ。
 そんな風に、あたしがレイシェ様を裏切ることができないだろうって、分かってて。

 震える足になんとか力をこめて、あたしは立ち上がった。

「あたしが言うことを聞けば、本当にニナに何もしない?」
「勿論です。その子だけでなく、貴女自身も傷つけないと約束します」

 レイシェ様が何を考えているかわからない。
 でもここでレイシェ様に従わなかったら、いずれもっと酷いことをされるかもしれない。
 そんな考えもあって、あたしは仕方なく、震える足でレイシェ様の方へと歩いていった。  



BACK / TOP / NEXT

Copyright (C) 2012 kouh, All rights reserved.